希望に基づく信仰と愛

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コロサイ人への手紙1章1〜8節

(2013.4.21)

参考資料

コロサイ書は、おそらく紀元61年頃に書かれました。4:8-9によれば、テキコがオネシモを連れてコロサイに赴く際、この手紙を携えていきました。

コロサイは小アジアの南西部にある町です。パウロ自身はコロサイに行ったことはありませんが(2:1)、パウロの弟子であったエパフラスの伝道によって教会が誕生しました。

エパフラス(7節)はエパフロデトの省略形ですが、ピリピ書に出てくるエパフロデトとは別人で、コロサイ出身の伝道者だと思われます(4:12)。ピレモン23によれば、彼はパウロと共に収監されていました。

なお、ピレモン書の宛先であるピレモンもコロサイ教会のメンバーであり、テキコがコロサイ書と一緒にピレモン書も届けました。

聖書からのメッセージ

イントロ

コロサイ教会には異端の教えが入り込んでいました。エパフラスからそのことを聞いたパウロは、警告の手紙を書く必要を感じました。しかし、いきなり指導から入ってはいません。まずはコロサイ教会のすばらしい点を挙げ、神さまに感謝しています。今回は、パウロが感謝した内容を通して、私たちが身につけるべき態度について学びましょう。

1.信仰と愛

イエスへの信仰

「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです」(3-4節)

まずパウロが挙げた感謝の種は、コロサイ教会の人たちが確かな信仰を持っているということでした。すなわち、イエスさまを愛し、イエスさまに信頼し、イエスさまに従っていきたいという願いを伴う信仰です。

イエスさまは、よくパリサイ人の偽善的な信仰を非難していました。彼らは、信仰を人にほめられたり、自己満足を感じたりするための道具にしていました。イエスさまはこうおっしゃっています。

「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(マタイ6:2)

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(マタイ6:3)

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:10-14)


このような偽善的な信仰は、罪人たちの心をくじき、かえって神さまの恵みから遠ざけてしまうことになりました。ですから、イエスさまは激しくパリサイ人を叱責したのです。

しかし、コロサイ教会の信仰は、自分ではなくイエスさまのすばらしさをほめたたえるようなものでした。私たちの信仰はどうでしょう。自分の栄光を求めるものになってはいなかったでしょうか。

聖徒たちへの愛

コロサイ教会の信仰は、単に心の中だけにとどまらず、他のクリスチャンへの愛という形で表に現れていました。特に、ピリピやテサロニケなどマケドニア地方の教会が行なったように、迫害で困窮していたエルサレムのクリスチャンたちに義援金を送る活動(第2コリント8:1-5)を、コロサイ教会も熱心に行なっていたのでしょう。

ヤコブ2:14-17にはこのように書かれています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」


しかし、コロサイ教会の信仰は、愛という行ないを伴う生きたものでした。私たちの信仰は生きているでしょうか。

2.希望に基づく

恐れではなく

コロサイ教会の人たちの内面には、イエスさまに対する確かな信仰があり、外面には聖徒たちに対する愛の行ないがありました。パウロは、それらは彼らが持っていた希望に基づくと書いています。

「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました」(5節)

希望ではなく恐れによっても従順や良い行動は生み出されます。イエスさまに従わないと滅ぼされる、愛の行動をしないとひどい罰を受けるとなれば、そんなのはいやですからイエスさまに従い、愛の行動をするかもしれません。

しかし、それでは奴隷根性と変わりません。聖書は教えています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」(ローマ8:15)

希望と福音

コロサイ教会の人たちの信仰と愛を生み出していたのは、恐れではなく希望でした。そして、その希望は福音のことばから来ているとパウロは言います。

福音のメッセージは、イエスさまが私たちの罪のために死んで葬られ、復活なさったということです(第1コリント15:1-8)。イエスさまの死と復活によって、私たちと神さまとを隔てていた罪が取り除かれ、敵対関係が解消されました。イエスさまを信じた私たちは罪の故に神さまに滅ぼされることはありません。

それどころか、私たちは神さまの子どもとしていただき、神さまに守られ、導かれ、永遠に祝福されます。私たちにはそういう希望が与えられています。

希望が信仰と愛を生み出す

そのような希望が与えられたコロサイ教会の人々は、感謝と感動に満ちあふれました。それがイエスさまに対する信頼や愛を生み出し、イエスさまにもっと従いたいという意欲をかき立てました。また、こんなにも祝福されているんだという喜びが、他の人にそれをお裾分けしたいという思いを生み出し、愛を引き出しました。

私たちの信仰生活の動機は、恐れでしょうか、それとも希望でしょうか。

3.福音に帰ろう

コロサイ教会には異端の教えが忍び込んでいました。たとえばモーセの律法を守らないと救われないという律法主義、天使礼拝の教え、肉体を苦しめることによって霊が解放されるというギリシャ哲学的な禁欲主義などでした。

パウロは、その警告をする前に、コロサイ教会が既に持っている良いものに目をとめ、それらがエパフラスから聞いた恵みの福音から来ているということを彼らに気づかせようとしています。

6節の「ほんとうに理解したとき以来」という言い回しにそれが表れています。「恵みの福音にとどまりなさい。外れそうになっていたら、そこに帰りなさい」とパウロは語っているのです。

私たちも、いつも恵みの福音を心にとめ、そこからすべてを考え、判断していかなければなりません。

まとめ

私たちの信仰生活が、希望に基づく信仰と愛に満ちたものになりますように。

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