幸いな人

トップページ聖書のメッセージ集2013年 > このページ


詩篇1篇1〜6節

(2013.6.30)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

詩篇1篇は、「なんと幸いなことだろうか!」という感嘆の声から始まります。あなたは幸いな人生を送りたいですね? どんな人が幸いな人だと聖書は教えているのでしょうか。

1.正しい者とは?

正しい者

1篇で、悪者、罪人、あざける者と呼ばれているのは、どれも同じ意味です。そして、正しい者と対比されています(1節)。

すなわち、この詩篇が語っている悪者とは、「正しくない者」という意味です。そして、悪者のような生き方をせず、正しい者として生きている人が幸いな人だと、詩篇1篇は教えています。

では、この詩篇が語る正しい者とはどういう人のことでしょうか。それは、2節に書かれているような人です。「まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」。

律法を喜んで守る

ここで、「おしえ」と訳されているのは、ヘブル語でトーラーと言います。すなわち、出エジプトの時代、神さまがイスラエル人に守るよう命じた生き方の指針、モーセの律法のことです。モーセの律法は、道徳律、刑法、民法、商法、日常生活、儀式に関する定めなど、613の規定があると言われています。

そして、律法を喜ぶ人、すなわち神さまの命令を積極的に守ろうとする人が幸いな人だというわけです。

613もあるモーセの律法を守るためには、その教えが自分の血となり肉となっていなければなりません。そこで、正しい者は、昼も夜も律法の言葉を口ずさんで、自分の潜在意識にまでその教えを浸透させようとします。

モーセの律法自身もそれを勧めています。「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」(申命記11:18)。

ヤハウェを喜ぶ

さて、律法を喜んで守る人が幸いな人だと言われています。「罰が怖いから、本当は従いたくないけれど、嫌々ながら」ではなく、「喜んで」です。

「【主】のおしえ」と書かれているところに注目しましょう。【主】とは、神さまのお名前である「ヤハウェ」のことです(ユダヤ人は代々この名を口にすることをはばかったので、正確にはどう発音するか分かっていませんが、様々な研究により、おそらくヤハウェと発音するだろうと言われています)。

そして、この名は神さまがイスラエルの先祖である族長たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)と契約を結ばれたお方であり、それを誠実に実行なさるお方だということを特に強調しています(過去記事参照)。

旧約時代のユダヤ人は、モーセの律法を守るから救われたのではありません。彼らの救いの条件は、神さまが族長たちに約束なさった契約が必ず実現すると信じることです(創世記15:6「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた」)。

契約とそれを信じる信仰によって救われたユダヤ人に対して、神さまが「わたしを信じたのなら、私があなた方に求めるこのような生き方をして欲しい」と与えたのが、モーセの律法です。前提は、神さまはユダヤ人を愛し、救ってくださったということです。その喜び故に、イスラエルの中の真の信仰者たちは律法を愛し、律法を守ろうとしました。

聖書の記録を読むと、残念ながらそういう人たちは少数派です。しかし、いつの時代にもイスラエルの中に存在しています。彼らは、イスラエルの残れる者(レムナント)、真のイスラエル、霊的イスラエルなどと呼ばれています。

今の私たちにとっての「おしえ」

今日、すでにイエス・キリストが十字架で罪の赦しを完成してくださっていますので、私たちクリスチャンはモーセの律法に縛られていません(ローマ10:13、コロサイ2:13-14など)。

では、どうせ赦されるんだから、好き勝手に、自分の欲望のままに生きればいいというわけではありません。現代の私たちは、キリストの律法(第1コリント9:21)を守ろうとします。キリストの律法は、イエスさまや使徒たちを通して啓示されました。新約聖書に書かれている教えです。

特に強調されているのが互いに愛し合うことです(ヨハネ13:34、ローマ13:8-10、ガラテヤ5:13-14など)。

しかも、それを守らないとさばきにあって滅ぼされるから、嫌々ながら守るというのではなく、イエス・キリストによって、無条件に赦され、神の子とされ、祝福をいただく者となったその喜び故にです。

聖書が教える正しい者とは、完璧に神さまの教えを実行できる人のことではなく、完璧ではないということを知り、神さまに謙遜に赦しを願い、無条件に赦され、愛されていることを信じている人なのです。

自分が神さまにどれだけ愛されているかということ、そして、どんなにすばらしい祝福が約束されているかということを味わい、喜ぶためにも、聖書のことばを昼も夜も口ずさまなければなりませんね。

2.正しい者と悪者の末路

正しい者への約束

砂漠や荒野の中に生えている木であっても、そばに水路が走っていれば、十分に水分を供給されてすくすくと成長し、やがて多くの実を結びます。それと同じように、神さまに愛され、救われていることに感動し、それ故に喜んで神さまのみこころを実践しようとする正しい者たちは、神さまからの霊的な助けによって、やがて人生にすばらしい実を結ぶようになります。

その実とは、たとえば「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といったすばらしい人格のことであり(ガラテヤ5:22-23)、他の人たちに良い影響を与え、さらには救いに導くということであり(ピリピ1:22)、祈りが頻繁に聞かれるようになるということ(ヨハネ15:16)などです。

さらには、何をしても栄える、成功すると約束されています。こういうことを言うと、御利益宗教だという批判が出てくるかもしれませんが、もちろん、欲望が何でもかなうという意味ではありません。そもそも、正しい者は、神さまのみこころにかなう生き方をしたいという願いの下に生きているわけですから、自分の欲望のままに成功を求めるということをしないのです。

悪者の末路

悪者の人生はもみがらのようなものだと詩篇は語ります。風が吹くまでは、吹き飛ばされません。しかし、いったん風が吹くと、それはすべて消えて無くなります。

この世では、神さまを信じている人よりも、信じていない人の方が、好き勝手に楽しく生きていて、成功すらしているように見えるかもしれません。しかし、たとえこの地上ではそうであったとしても、やがて世の終わりの時にやってくる最後の審判(白い御座のさばき)の時には、有罪判決を受けて人生のどんでん返しを味わうことになります。

正しい者たちは、神さまの赦しを受け取っていますから、最後の審判を受ける必要がなく、神の国で永遠の祝福を味わうことになります。繰り返しますが、正しい者たちとは、神さまの命令を完璧に守れる人たちという意味ではなく、完璧でないことを知り、神さまにあわれみを求め、赦しを信じた人たちのことです。

近視眼的に悪者をうらやまない

小学校の夏休み、私は7月中に絵日記と自由研究以外のすべての宿題を終わらせたものです。友だちが楽しく遊んでいるのをうらやましく思いながらも、それでも宿題を終わらせることを優先しました。そのおかげで、8月の1ヶ月間、朝から晩まで楽しく遊び回りました。そして、小学生にとっての最後の審判、8月31日の夜でさえ、「宿題終わらせたの?」というヒステリックな母親の声を聞くこともなく、また9月1日に降り注ぐ担任の先生の雷も恐れる必要もなく、心穏やかに過ごすことができました。あなたの夏休みの過ごし方はどうでしたか?

この地上での短期的な快楽とか、成功とか、名声とか、そういったものに惑わされないようにしましょう。私たちイエス・キリストを信じる者には、永遠のいのちが与えられ、永遠に続く祝福が与えられています。

まとめ

愛され、救われている喜びをかみしめながら、聖書のことばを昼も夜も口ずさみ、またそれを実践できるよう奮闘努力しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2013 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.