懲らしめという愛のかたち

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詩篇6篇1〜10節

(2013.7.21)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

前回の詩篇5篇同様、この6篇でも、ダビデは敵の攻撃に弱り果てています。さらに、2節を見ると、彼は病気にかかって苦しめられていたようです。そして、彼は自分が苦しめられる原因を分かっていました。

ダビデの詩を通して、私たちが味わう苦しみについてどう捉え、どう対応すればいいかを考えてみましょう。

1.ダビデの祈り

置かれた状況

ダビデは、いやしを求めています。ということは、彼が病の中にいたということです。2節で、彼は衰え、骨がきしむほどの苦しみを味わっています。

また、体だけでなく心にも大きな痛みを抱えていました。ダビデが病気になったせいなのか、あるいはそれ以前からなのか分かりませんが、敵の存在がダビデの心をいらだたせていました(7節)。

具体的な状況は分かりません。しかし、ダビデは心身ともに痛めつけられ、疲弊していました。それは、涙で寝床が押し流されると表現されるほどでした(6節)。

神への祈り

そのような中で、ダビデやいやしを求め、敵を取り除いてくださるよう、神さまに祈り求めています。

ダビデの祈りはそれだけではありません。
  • 「【主】よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください」(1節)
  • 「帰って来てください。【主】よ」(4節)
これらの祈りが意味するところは、ダビデは神さまとの関係がおかしくなってしまい、神さまが遠く離れてしまったように感じているということです。

ダビデは、自分が今苦しんでいる根本的な原因が分かっていました。具体的には書かれていませんが、彼は自分が神さまの喜ばれないこと、すなわち罪を犯し、その結果神さまとの関係がおかしくなってしまったことを自覚していました。そして、神さまはダビデが罪を悔い改めるように、心と体に苦しみを与えておられるのだと理解しました。

そこで、彼は自分の罪を認めました。そして、悔い改め、赦しを願い求めています。4節「私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください」

赦しの確信

罪を悔い改め、赦しを求めて祈ったダビデは、確かに神さまがその祈りを聞いてくださり、赦してくださっていることを確信しました。「【主】は私の泣く声を聞かれたのだ。【主】は私の切なる願いを聞かれた。【主】は私の祈りを受け入れられる」(8-9節)

私たちの信じる神さまは、義なるお方であり、罪をそのまま見過ごすことは決してなさらない方ですが、同時に愛に満ち、恵みに満ちたお方です。自分の罪深さや無力さを知り、謙遜に赦しを求め、あわれみをもとめ、助けを求める人を赦し、救ってくださいます。

自分が神さまに赦され、神さまとの関係を回復することができたと信じたダビデは、間もなく体や心の痛みからも解放されるだろうと期待しています。

2.懲らしめる神の愛

呪いとしての苦しみ

私たちが聖書の記事を読むとき、神さまが人間に下される刑罰、すなわちさばきには、少なくとも2つの種類があるということを理解する必要があります。それは、呪いとしてのさばきと、懲らしめ、すなわち教育的指導としてのさばきです。

呪いとしてのさばきは、神さまがその人との関係を完全に断ち切り、滅ぼすためのさばきです。世の終わりの大患難時代に、まことのキリストではなく偽のキリスト(不法の人、反キリスト)を選んで礼拝する人たちに対して下されるさばき、そしてゲヘナ(火の池、いわゆる地獄)において永遠に続く苦しみなどがこれに当たります。このタイプのさばきは、義なる神さまの罪に対する激しい怒りを表すものであり、苦しめることが目的です。

ただし、イエス・キリストを信じ、罪を永遠に赦されている私たちは、このタイプのさばきを受けることは決してありません。ご安心を。

懲らしめとしての苦しみ

そして、もう一つのタイプ、懲らしめとは何でしょうか。子どもが危険なことや悪いことをしたときに、それは良くないことだということを理解させ、もう繰り返してはいけないのだということを理解させるために、お尻や手の甲を軽く叩いたり、怖い顔で「ダメでしょ」と叱ったり、おやつを抜いたり、しばらく外遊びを禁止したりする。これが懲らしめですね。

懲らしめは、子どもにとっては味わうのが嫌なものですが、それは親や教師や指導者の愛情に基づく行為です。苦しめること自体が目的なのではなく、それによって自分が良くないことをしているのだということに気づき、悔い改めて、健全な道に戻ってもらうこと、それによってその子に幸せな人生を歩んでもらうこと、これが目的です。

神さまも、同じ理由で人に懲らしめとしての苦しみを与えられることがあります。私たちは赦されていますが、だからといって安心して罪を犯そうということにはなりません。神さまは罪を憎まれます。そして罪は私たちと神さまの関係をおかしくし、結果的に私たちに用意されている神さまの祝福が十分味わえないようにしてしまいます。罪は人にとっても神さまにとっても良くないものなのです。

ですから、神さまはあえて私たちを苦しい目に遭わせることがあります。それは、その人が間違った方向に進んでいて、それによって神さまとの関係がおかしくなっていることを知らせ、悔い改めて神さまとの関係を再び強固なものにするよう促すためです。

私たちが懲らしめによって苦しむのは、神さまが私たちを呪い、嫌っているからではありません。私たちを子として扱い、すくすくと成長して幸せになってもらいたいと願っておられるからです。苦しんでいる最中は、神さまに見捨てられ、呪われているように思えるかもしれませんが、実はあふれるばかりの愛の行為なのです。

実際、ダビデは苦しみの中で自分の罪を悔い改め、神さまとの親しい交わりを取り戻し、敵に立ち向かう勇気を与えられています。

懲らしめに関する聖書の教え

第1コリント11:32
「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」
ヘブル12:5-11
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである』。

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」
黙示録3:19
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」

苦しみは愛されている証拠

もちろん、私たちが苦しむのは、絶対に私たちが罪を犯したからだと考えるのは行き過ぎです。

ヨブが苦しんだのは彼の罪のせいではありませんでした。

また、イエスさまも、生まれつき目の見えない人についてこうおっしゃっています。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)

私たちを訓練し、品性や信仰を磨くために、あえて苦しみを通過させられるということもあります。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3-4)

ただ、苦しみに遭ったときには、ちょっと立ち止まって今までの自分の歩みを振り返り、神さまのみこころにかなっていただろうかと考えてみることは意味があるでしょう。

決して忘れないでください。いずれにしても、神さまはあなたを嫌い、呪って苦しみを与えることは決してないのだということを。苦しみに遭ったとしても、むしろそれは神さまがあなたを愛しておられる証拠なのだということ。

まとめ

詩人ゲーテが書いています。「涙と共にパンを食べたことのない人、寝床の上で泣きながら夜を明かしたことのない人は、天国の力を知ることはない」。愛である神さまは、その苦しみを通して、あなたにどんな天国の力を味わわせようと思っておられるのでしょうか。

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