救い主の謙遜

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詩篇8篇1〜9節

(2013.7.28)

参考資料

聖書の中で、神さまの御名というのは、栄光と権威に満ちた神さまご自身のことを指します。たとえば、「御名が全地にわたって力強い」というのは、「神さまの力強さが全地で表現され、認められている」というような意味に解釈できます。

5節の「神」は別訳では「御使い」すなわち天使です。ギリシャ語訳である七十人訳は「御使い」と訳していますし、これを引用しているヘブル2:5-9でも天使という意味に解釈しています。

聖書からのメッセージ

イントロ

この詩は、やはりダビデの作ですが、3節を見ると、彼が夜空を見上げているときに作った歌だと思われます。彼の心は感動でいっぱいでした。私たちも感動に満ちた人生を歩みたいですね。彼が感動したものを見てみましょう。

1.神の栄光を現すもの

全地

この詩の中でダビデがテーマとしているのは、神さまの栄光、神さまのすばらしさです。様々なものが神さまのすばらしさを表現し、ほめたたえていると書いています。

まず、参考資料の項目に書かせていただいたように、1節の「あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう」というのは、神さまの力強さ、すばらしさが、全地で表現されている」というような意味です。

地上の様々な自然に触れるとき、人は神さまのすばらしさに触れることができます。博物学者のリンネは、顕微鏡で様々な小さなものを覗きながら、神さまの創造のわざの緻密さに驚嘆しました。そのため、顕微鏡を覗く際には、礼拝に行くときに着る正装をするようになったと言われています。

「あなたはご威光を天に置かれました」(1節)。気象や天体もまた、神さまのすばらしさを表しています。

詩篇19:1-4にも、物言わぬはずの天や大空が、饒舌に神さまのすばらしさを人に語って聞かせてくれることが書かれています。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた」

ですから、「聖書を読んだことがないし、伝道されたこともないから、神さまのことなんか知りませんでした」という言い訳は、神さまのさばきの場では通用しないよと、パウロは語っています(ローマ1:18-20)。

幼子と乳飲み子の口

この当時、子どもはもちろん大人に愛されていましたが、同時に未完成で、大人よりも価値の低い存在とも見なされていました。神さまは、そういう幼子や乳飲み子によって、ご自身のすばらしさを宣言させ、神さまを信じない人たちの生き方を改めさせようとなさったと、ダビデは語っています。

イエスさまも、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」(マルコ10:15)とおっしゃいました。幼い子どもは、教えられたことを素直に信じる力を持っています。その素直さは、時に大人たちを驚かせ、信仰の背筋を伸ばしてくれます。

 この話をお読みください

人の子(人間)

ダビデはイスラエルの王ですが、とても謙遜な人でした。自分をはじめとするすべての人間は、天体や天使に比べたなら、幼子や乳飲み子のような小さな存在だと自覚していました。

それにもかかわらず、神さまは人間を格別に扱ってくださっています。そして、地上と生物たちを支配し、治める管理者にしてくださいました(創世記1:28)。

当たり前だと思っていることをしてもらっても感動がありません。しかし、まさかと思うようなよいことをしてもらうと、人は感動します。ダビデは、人間に対する神さまのあり得ないような配慮に、感動の声を上げています。

2.新約聖書への引用

ルカ4:6-7

この箇所は、詩篇8篇が直接引用されているわけではありませんが、関連しています。

イエスさまが公の活動を始める前、荒野でサタンの誘惑にあわれました。サタンは、イエスさまに全世界を見せ、こう言いました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」

詩篇8篇でも歌われていた通り、人間には全地と生物たちを治める権威が与えられていたはずです。しかし、今は「この世の神」(第2コリント4:4)と呼ばれるサタンがそれを手にしています。どうしてでしょうか。

それは、アダムが罪を犯したからです。彼は、「これだけは食べてはならない」と命じた神さまのことばに逆らって、サタンの声に聞き従い、禁断の木の実を食べてしまいました。そのため、全地と生物たちを治める権威を失い、それをサタンが不法に取り上げたのです。

しかし、それでも神さまは人間を諦めませんでした。人間に対する考えられない配慮は続きました。神さまはアダムとエバに、やがて「女の子孫」と呼ばれる人物、すなわち救い主が現れて、人間を罪ののろいから解放すると約束なさいました。

旧約聖書は、その救い主がどういうお方なのかを少しずつ明らかにしていきます。そして、新約聖書に入ると、その救い主がナザレのイエスであることが明らかにされます。

ヘブル2:5-9

「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。『人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました』。
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」


ヘブル書のこの箇所の前後の文脈は、救い主であるイエスさまが、天使よりもはるかにすばらしい存在であるということことの解説です。そして、引用されている詩篇8:5-6は、人類一般の話だけではなく、特にイエスさまについて適用されています。

イエスさまは神さまですが、人として地上に来られ、。その時に天使よりも一段低い存在となられました。そればかりか、仕える者の姿を取り、最後は全人類の罪の罰を全部引き受けて、十字架で亡くなりました。謙遜の極致です。

この救い主イエスさまの謙遜さによって、私たち人類の罪は赦されました。そして、やがて世の終わりの時に、アダムが失ってしまった全地を治める権威を回復します(黙示録5:9-10、20:4-6)。

マタイ21:16

イエスさまがエルサレムに入られたときの出来事です。大人たちは「ダビデの子にホサナ」と叫びました。これは、救い主はダビデの子孫として来られるという預言に基づいていて、イエスさまを救い主だと認めて歓迎する叫び声です。すると、神殿の中にいた子どもたちも、大人たちの真似をしたのでしょう、「ダビデの子にホサナ」と叫びます。

イエスさまのことを救い主だとは認めたくないユダヤの指導者たちがそれを聞いて怒り、イエスさまに「子どもたちの叫びが聞こえるか」と尋ねます。自分は救い主ではないと否定して、子どもたちの叫びをやめさせろということです。

するとイエスさまはこうお答えになりました。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか」。

子どもたちは素直に大人のいうことを受け入れます。そのような素直な信仰こそ、救いをいただくために必要なものです。私たちは、神さまのことば、聖書の言葉を素直に受け取り、信じているでしょうか。改めて吟味させられますね。

まとめ

私たちが夜空を見上げるとき、あるいは自然のすばらしさに触れ、子どもたちの素直さに触れるとき、神さまがこの自分に向けてくださっている配慮の大きさを思い起こし、特に救いのためにイエスさまがしてくださった考えられないようなすばらしいみわざを思い起こして、素直に感動し、感謝し、賛美しましょう。

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