救いと三位一体の神

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第1ペテロ5章1〜12節

(2013.8.4)

参考資料

1節に宛先に挙げられている地名は、現在のトルコの北部と中部の地域。

1節の「散って」というのは、ギリシャ語でディアスポラ。パレスチナ以外の地域に住んでいるユダヤ人を指す用語です。ペテロは、主にユダヤ人への伝道に使命を与えられていました(ガラテヤ2:7)。

聖書からのメッセージ

イントロ

しばらく第1ペテロの手紙を学びます。今回の箇所は挨拶です。文学者が出だしの数行に力と知恵を込めて書くように、この短い挨拶の中にも、大切な真理が描き出されています。

特に2節でペテロは、クリスチャンが救われるのに、三位一体の神さまが関わっておられるということを示しています。

1.父なる神の予知に従い

ずっと前からの計画

「予知」ということは、私たちの天の父である神さまは、私たちの救いをあらかじめ知っておられたということです。

すなわち、私たちの生き方を見てから、「よし、こいつは見所があるから救ってやろう」と決めたのではなく、それ以前から、いや私たちが生まれる前から、あらかじめ救いを計画してくださっていたということです。

残念ながら、私たちは不完全です。イエスさまを信じて救われてからも、いろいろと失敗してしまうことがあります。場合によっては、イエスさまに喜んで従いたいという情熱を失ってしまい、「これではいけない」と思いながらも、いつの間にか世の中の人たちと同じような生き方になってしまっているということもあるでしょう。

そうなってしまったら、救いが取り消されてしまうのでしょうか。絶対にそんなことはありません。救いは父なる神さまがこうするとお決めになったことが基礎になっているので、私たちの霊的な状態によって取り消しになることはありません。

アブラハムの例

ユダヤ人の先祖であるアブラハムに対して与えられた約束もそうでした。神さまは世界全人類の中からアブラハムを選び、彼と契約を結ばれました。この契約は、アブラハム契約と呼ばれています(具体的な内容は、創世記12:1-3、12:7、13:14-17、15:1-21、17:1-21、22:15-18を参照)。

この契約は、片務契約(二人の当事者のうち、片方にだけ契約履行の義務があるというタイプの契約。要するに一方的な約束)として結ばれました。アブラハムが失敗しても、それで契約が取り消しになったりせず、神さまは契約の中にある約束を守られるということです。

たとえば、アブラハム契約の中に、神さまがアブラハムを祝福するという約束があります。ところが、約束の地カナンに飢饉があったとき、アブラハムは神さまの守りを信頼しきれませんでした。そして、約束の地を離れてエジプトの国に身を寄せます。

そのとき、アブラハムは、エジプト人が妻サラの美しさに目をとめ、アブラハムを殺してサラを奪うのではないかと恐れました。そこで、サラに「自分はアブラハムの妹だ」と言うように願います。ここでもアブラハムは神さまの守りを信じ切れていません。

ところが、サラの美しさに目をつけたエジプト王が、サラを召し上げて後宮に入れてしまいます。このままでは、サラを通してアブラハムに息子が与えられるという契約が台無しになってしまいます。

そこで、神さまは(アブラハムにではなく)エジプトにさばきを下されました。エジプト王にしてみれば、アブラハムが妹だと言うからサラを召し上げて、しかもただで取り上げたのではなく、たくさんの花嫁料も渡したのに、神さまのさばきを招いて、たまったものではありません。

しかし、エジプト王はアブラハムに文句こそ言いましたが、罰することをしませんでした。そして、サラを召し上げるときに与えた花嫁料も取り返しませんでした。ただ、エジプトにとどまることは許さず、国外退去としたのです。

アブラハムは神さまを信頼せず、嘘をつき、エジプトに迷惑をかけました。それにもかかわらず、前よりももっと物質的に豊かになりました。

教育的指導は救いの取り消しではない

もちろん、罪を犯すことは私たちにとっても神さまにとっても良くないことです。ですから、父なる神さまは愛する子どもを訓練するように訓練をお与えになります。

アブラハムもそうでした。物質的に豊かになったのはいいのですが、エジプトで手に入れた奴隷の中に、ハガルという女性がいました。彼女の存在は、その後アブラハム一家の悩みの種となり、それによってアブラハムは長いこと訓練を受けることになります。

しかし、だからといって、アブラハム契約そのものが取り消されることはありませんでした。今も有効に働いています。

私たちの救いも同じです。父なる神さまの予知によって与えられた救いは、決して取り消されることがありません。

2.御霊の聖めによって

モーセの律法の問題点

この手紙の宛先は、特にユダヤ人のクリスチャンです。彼らは、かつてはモーセの律法を守るよう教えられていました。モーセの律法は、何が神さまのみこころかは教えてくれますが、それを実践する力までは与えてくれませんでした。

しかし、聖霊なる神さまは、クリスチャンの心の中に住み、聖い生き方ができるように内側から造り変えてくださいます。

聖霊の助けに信頼しよう

自分の力だけで罪と戦い、神さまのみこころにかなう生き方をしようとすると、必ず失敗します。

罪を犯すようにという誘惑を感じたとき、あるいはみこころだと分かっているのにやりたくないという思いがわいてきたとき、聖霊さまに助けを求めましょう。「聖霊さま、私一人ではこの罪と戦うことはできません。しかし、あなたが聖い生き方をする力を与えてくださると信じます」と祈りましょう。

そして、聖霊さまが勝利を与えてくださったと信じて、正しいことを行ないましょう。きっと、あなたは今までできなかった生き方をすることができるようになっています。

3.イエス・キリスト

「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた」とあります。

救われた目的の一つ

クリスチャンが救われた目的の一つは、イエスさまに従い、イエスさまの御心を行なうことです。

もちろん、第2のポイントで学んだように、イエスさまに従えるようになったら救われるのではなく、救われたら聖霊のお働きによって、イエスさまに従えるようになるわけですが。

血の注ぎかけ

そして、イエスさまは私たちのために十字架にかかり、血を流してくださいました。

「血の注ぎかけ」という言葉は、特にユダヤ人にはなじみのある表現です。ユダヤ人が罪を犯すと、神殿に雄牛を連れて行き、祭司に手渡します。祭司は、その動物を殺して、肉体は祭壇の上で焼いて煙にします。そして、血は祭壇の土台に注ぎかけます。

聖書には、血イコール命という思想があります。血を注ぎかけるというのは、命がささげられたという意味です。本当なら罪を犯した本人が、神さまからの罰として死ななければなりませんが、雄牛が身代わりに命を差し出してくれたため、その人は赦されて命を得ます。これが血の注ぎかけが意味していることです。

イエスさまは、私たちの罪が赦され、私たちが神さまからの罰を受けることがないように、そして神さまとの関係を回復して、大いに祝福されるように、十字架にかかり、ご自分の血を天の神殿の祭壇に注ぎかけてくださいました。

勝手に条件を付け加えてはいけない

クリスチャンは、イエスさまの十字架のおかげで罪が赦されたということを信じる人々です。

第1コリント15:1-8には、私たちが救われるために信じるべきメッセージ(すなわち福音)の内容が要約されています。特に3-4節「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」

この福音を信じる以外に条件はありません。どんなにまじめな理由からであったとしても、勝手に条件を付け加えてはいけないのです。自分に対しても、人に対しても。

たとえば、「人生のあらゆる領域(教会生活だけでなく、仕事も、勉強も、人間関係も、余暇活動も、経済も、健康も、すべて)で、イエスさまを主として認めるなら救われる」とか、「憎んでいるあの人のことを赦したら、あなたも赦される」とか。

それが自分一人の力でできるくらいなら、そもそも私たちは赦しを必要としません。

確かに、私たちは自分勝手な生き方をやめようと決意し、人生のあらゆる領域で、イエスさまを主と認め、従おうとします。それは、私たちが救われたからです。また、赦せないあの人のことを赦し、愛そうとします。それは、まず私たちが赦され、愛されたからです。

一方的に赦され、救われたという喜び、感動、もったいなさが、私たちを神さまのみこころにかなう生き方をしたいと思わせるのです。

まとめ

私たちの救いは神さまのわざです。確かに救われていることを確認し、喜びに満たされましょう。それがクリスチャン生活の原動力です。

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