消えることのない資産

トップページ聖書のメッセージ集2013年 > このページ


第1ペテロ1章3〜12節

(2013.8.11)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

この手紙の中には、試練や苦しみについて触れられています。宛先である小アジアの諸教会には、迫害に苦しむクリスチャンたちがたくさんいたのかもしれません。

しかし、今回の箇所で、ペテロは彼らが喜びに満たされている様子を描いています。なぜ、彼らは喜ぶことができたのでしょうか。

1.神があわれみによってしてくださったこと

新生

3節で、ペテロは天の父なる神さまをほめたたえています。それは、神さまが私たちを新しく生まれさせてくださったからです。

ユダヤ人の宗教的指導者の一人だったニコデモが、イエスさまを訪問したとき、イエスさまは彼にこう言いました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)

旧約聖書には、神の国(御国、天の御国)に関する預言がたくさんあります。神の国のことを、現在のユダヤ教徒は「メシヤの王国(The Messianic Kingdom)」と呼んでいます。救い主(メシヤ)が来られて、ダビデの王座に就き、王として世界を統治なさるからです。クリスチャンは、この王国のことを千年王国と呼んでいます。千年間続いて新しい天と新しい地につながっていくからです(黙示録20:4-6)。

ユダヤ人にとって、メシヤの王国に招かれてそこに住むことは大きな希望でした。特に、ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤ人にとっては、とても重要な願いだったのです。もちろん、ニコデモにとってもそうです。

イエスさまはニコデモに、「肉体的にユダヤ人として生まれるだけでは、あるいはいろいろな善行を積み重ねるだけでは、神の国に入れない。まったく新しく生まれる必要がある」とおっしゃいました。

それは霊的な生まれ変わりです。神さまに逆らう罪人として生まれ、神の敵であった私たちが、神さまの子どもとして新しく生まれるのです。

復活によって

どうしたら新しく生まれるのでしょうか。それは、聖霊さまのわざであるとイエスさまはニコデモに教えました。聖霊なる神さまが新しく生まれさせてくださいます。神さまは、私たちの努力や悟りによってではなく、ご自身の一方的なあわれみによって、新しいいのちを与えてくださいます(3節)。

私たちがすべきことは、イエスさまの十字架によって罪が赦されているということと(2節)、イエスさまが復活なさったので、私たちに新しいいのちが与えられたんだということ(3節)を信じることです。

朽ちない資産

私たちは、神の国に何も持たずに住まわせられるのではありません。そこには、一人一人に資産が用意されています。朽ちることもなく、消えることもない資産です(4節)。税もかからず、相続問題で他の人ともめることもありません。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6:19-21)

これは単なる希望的観測に過ぎない、実際には実現なんかしない死んだ望みではありません。「生ける望み」、すなわち確実に有効な希望です。私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、新しく生まれ、神の国に入り、そこで永遠に続く祝福を味わうことができます。

2.この権利は取り去られることがない

神の守り

罪赦され、神さまの子どもとして新しく生まれ、そしてイエスさまが治める王国で、永遠に祝福されながら生きることができるというこの特権は、決して取り去られることがないとペテロは保証しています。

「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」(5節)

今は試練があるけれど

現実には、嫌なこと、悲しいこと、つらいことがたくさんあります。しかし、それは永遠には続きません。クリスチャンの終着点は、絶望でも滅びでもむなしさでもなく、永遠に続く祝福です。

そして、その特権は神さまによって守られており、何者も決して奪い取ることができません。ですから、小アジアのクリスチャンたちは大いに喜んでいました。

試練ゆえにますます祝福される

試練は過ぎ去るというだけではありません。その試練を味わい、試練に耐え、乗り越えようと奮闘努力することによって、私たちの信仰は練り鍛えられます。

神さまの愛を疑い、イエスさまの力を疑い、絶望して信仰を捨ててもおかしくないような状況の中で、なおも神さまに期待し、イエスさまに信頼し、神さまの喜ばれる生き方を選び続けていくことによって、私たちの信仰の筋力は増していきます。

ときには、絶望のあまり、神さまを呪ってしまったり、やけになって神さまが喜ばれないと分かっているけれど、手っ取り早く安心を与えてくれそうなことに手を出してしまうかもしれません。しかし、それでも再びイエスさまの十字架を思い出して悔い改め、あるべき生き方に戻ろうとする。それによっても、私たちの信仰は鍛えられていきます。

こうしてあなたが奮闘努力していることは、地上の人間は認めてくれなかったとしても、決して神さまは無視なさいません。必ず憶えられていて、天の御国に入ったときに、大いに賞賛され、感謝され、報いをいただくことができます。

3.信仰によって喜ぼう

見ていないけれども

ペテロは続けます。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(8-9節)

信仰とは、見たり触ったりして確認できないことを、神さまのことばに信頼して、そうだと受け取ることです。

私たちの方が問われている

問題がやってくると、私たちは「神さまどうしてこんなことが起こるんですか?」と尋ねたくなります。尋ねてもかまいません。しかし、同時に私たちの方も神さまから問いかけられているのだということを忘れてはなりません。それは「あなたは、この問題の中で何を信頼し、何を行ないますか?」という問いです。

「神さまを信頼し、神さまのみこころを行なう生き方を選ぶのか、それとも、神さまを信頼せず、神さまのみこころなど考えないで自分のしたいことをする方を選ぶのか」という問いです。

喜ぶことを選ぼう

罪の赦しは目に見えません。新しいいのちも目に見えません。神の国はまだ地上には実現していません。天に蓄えられているという私たちのためのごほうびも見えません。父なる神さまも、イエスさまも、聖霊さまも見ることができません。

しかし、私たちは信じています。これからも信じ続けます。三位一体の神さまがいらっしゃって、私たちを愛し、この世でも次の世でも、私たちに最善以外のことをなさらないと。

この世は、見えないものなど嘘っぱちだ、現実に起こっているこの問題、苦しみ、悩みこそリアルなものだと思い込ませようとします。

私たちは、それでも「私はイエス・キリストに信頼する」と宣言しましょう。そして、喜ぶことを選択するのです。

まとめ

今、現実に苦しみや悲しみに直面していますか? 取り除いてくださるように祈りましょう。と同時に、神さまは最善をなさると信じて、神さまをほめたたえましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2013 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.