私たちは主のもの

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第1ペテロ1章13〜21節

(2013.8.18)

参考資料

14節の「(欲望に)従わず」は、ローマ12:2の「(この世と)調子を合わせてはいけません」と同じ言葉。影響を受けないように、引きずられないようにというような意味。

16節の「聖」について、「新キリスト教辞典」では次のように解説しています。
「神御自身と、神との関係にあるすべてのものということができよう。どのような事物も人格的存在も、それ自体では聖ではないが、それが神との関係におかれる時に、聖なるものとされるのである。ただし、神の聖性は恒常的かつ永遠であるが、神以外の事物や人格的存在の聖性はきわめて不安定なものであって、神との関係におかれている時だけのものであるということを忘れてはならない」。
元々は「切り離す」という意味の言葉で、神さまと関係あるものとして、他のものから区別して特別に扱うことです。

16節は、レビ11:45の引用。

聖書からのメッセージ

イントロ

2章の後半から、ペテロは具体的なクリスチャン生活に関する勧めをしています。今回の箇所は、そのような生き方をするための土台、根本的な心構え篇です。

1.聖なるものとなる

心を引き締め、身を慎み

13節のこの言葉は、しもべがいい意味で緊張し、与えられている仕事を忠実に、熱心に行なおうとする態度を表しています。

そういう生き方は、前回学んだように、必ず神さまに覚えられていて、やがてイエスさまが再臨なさったときに、あふれるばかりに報いをいただくことができます。

イエスさまは、あるときこんなたとえ話を語られました。「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」(マタイ24:45-47)

有名なタラントのたとえ(マタイ25:14-30)も同じですね。ポイントは、主人である神さまが喜ばれる生き方は何かということを意識して、今を生きるということです。

従順な子どもとなり

14節も同じことを教えています。

まずペテロは、以前、私たちが無知であったとき、すなわち、父なる神さまのこともイエスさまのことも知らなかったときのような生き方を戒めています。

「欲望に従わず」とは、上述の参考資料に書いた通りの意味です。かつての私たちは、わき上がってくる様々な罪深い欲望に引きずられ、その影響をまともに受けて行動していました。

しかし、今私たちに求められているのは、従順な子どもとなること、父なる神さまに従って生きようと意識することです。

聖なるものとされなさい

聖なるものとは、神さまに関係するもの、神さまに属するものとして、他のものから取り分けられたものという意味です。

同じオリーブの木から取った油でも、それを注ぎの儀式に用いるものは「聖なる注ぎの油」と呼ばれて、他の油とは区別されます。同じ放牧地で育った牛でも、神さまへの捧げ物として取り分けられると、聖なる牛です。

私たちも聖なるものとされるよう勧められています。私たちは、イエス・キリストを信じていない人たちから区別されています。それは、私たちがその人たちと比べて人格的に優れているという意味ではありません。

別に聖なる油が、他の油と比べて格別香りが良いわけでも、聖なる牛が他の牛のように糞をしないわけでもありません。見た目は変わりません。しかし、神さまにささげたり、神さまの働きのために用いるために区別されたとき、聖なるものと呼ばれるのです。

私たちが聖なるものだという意味は、私たちが人格的なすばらしいということではなくて(もちろん、そうありたいと思いますが)、私たちがもはや私自身のものではなくて、神さまのものだという意識を持つということです。人格的なすばらしさ、行ないのすばらしさは、その結果として与えられるものです。

もしも、私たちのいのちや人生が私たちのものであるなら、私たちが好き勝手にしてもいいでしょう。何をしても、しなくてもかまわないし、ばれて自分に問題が降りかからないならば、社会的なルールを破ったってかまわないでしょう。自分の生命を自分で断ったってかまわないことになります。14節の「無知であったときのさまざまな欲望に従」った生き方とは、まさにそれです。

しかし、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(詩篇100:3)

今回のペテロの勧めは、私たちがどんな意識を持って生きるかを問うています。あなたは、自分のいのちや人生が誰のものだという意識で生きていますか? そして、「心を引き締め、身を慎み」、すなわち、そのような意識を強く持っていると、今の生き方がどのように変わりますか?

2.動機

精算のときがやってくるから

先ほど、イエスさまのしもべのたとえを2つ紹介しました。いずれも共通しているのは、やがて主人が帰ってきて、精算のとき、しもべたちがどのような仕事ぶりだったかをチェックされるときがやってくるということです。

受験生がこの夏休みをどのように過ごしたかは、やがて来る受験の日に明らかになります。

そして、神さまのチェックは公平です(17節)。だから、ペテロは「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」と勧めています。

救われた喜びの故に

しかし、私たちクリスチャンと、しもべや受験生と異なる点があります。それは、ただ単に精算のときを恐れて行動するだけではないということです。

13節の「ですから」は、前の箇所を受けています。すなわち、前2回で学んだこと、私たちがキリストの十字架によって罪を赦され、その復活によって新しく生まれて、やがて実現する神の国で永遠の祝福をいただく約束を与えられているということです。

イエスさまのたとえ話では、忠実だったしもべはほめられ、多くの褒美をもらいますが、不忠実だったしもべは打ちたたかれ、クビになって追い出されてしまいます。

しかし、私たちの救いが取り消しになることは決してありません。それは、私たちの忠実さとか、行ないの正しさによって私たちが救われたのではなく、「あなたがたの信仰と希望は神にかかっている」(21節)からです。

私たちはただで赦され、救われ、永遠の祝福を約束されました。その喜び故に、私たちは神さまの喜ばれる生き方を求め、それを実践しようと奮闘努力するのです。

まとめ

私たちはイエス・キリストの尊いいのちによって買い取られた、神さまのものです。神さまのものということを意識して生きていきましょう。

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