ノアの洪水とバプテスマ

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第1ペテロ3章20〜21節
創世記6章9〜22節

(2013.10.6)

参考資料

「バプテスマ」……クリスチャンが救われ、教会に加わるときに行なう儀式、すなわち洗礼のことです。

聖書からのメッセージ

イントロ

ノアの洪水の出来事は、バプテスマ(洗礼)の「型」であると言われています。これはどういう意味でしょうか。

1.型とは

はんこで言うと印影のこと

「型」と訳されている言葉は、ギリシャ語でテュポスといいます。これははんこを紙に押しつけた後に残る印影のことを指します(日本語ですと、指で持つはんこのほうを型と言いそうですが、逆です)。

神さまがご自分の計画や真理を、人や物や儀式や出来事を通して示される場合があります。その場合、その人や物や儀式や出来事のことを「型」と呼びます。

たとえば、神さまがモーセに礼拝の場として幕屋を作るように命じたとき、天にある原型を示し、それに従って作るよう指示なさいました。この場合、天国での神さまの臨在や礼拝が「原型」で、幕屋はその「型」です(出エジプト25:9)。

型の例

この他にも、たとえば こういう例があります。
  • アダムはキリストの型です。アダム1人の違反は全人類に影響を与えましたが、イエス・キリストの十字架の死も全人類に影響を与えました(ローマ5:14)。
  • モーセの律法に従ってささげられる動物犠牲は、イエス・キリストの死を示す型です。どちらも身代わりの死によって、神さまと罪人の関係を回復させます(ヘブル9:14)。
  • アブラハムがイサクを取り戻したのは、キリストの復活の型です。アブラハムは、イサクを殺しても復活すると信じていました(ヘブル11:19)
  • イスラエルは荒野でマナを与えられ、岩から水を出してもらって生き続けましたが、この岩は、御霊によっていのちを与えてくださるキリストを示す型です(第1コリント10:4)
そして、今回の箇所でも、ノアの洪水の出来事はバプテスマ(洗礼)の型であると言われています。

バプテスマの意味

聖書には 「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり」(第1ペテロ3:21)と書かれていますから、バプテスマそのものに人を救う力はありません。洗礼を受ければ救われるというわけではないのです。

救いは、あくまでもイエス・キリストを信じる信仰によってです。すでにキリストを信じることによって救われた人が、自分の信仰を公に表明するための機会がバプテスマだということですね。

聖書の他の箇所を見ると、バプテスマは、罪人である私たちがキリストと共に死んで新しいいのちが与えられたことを表現しています(ローマ6:3-5)。洗礼を受けたとき、私たちは、イエスさまによってすべての罪から解放されて、神さまの子どもとして新しい歩みを始めたということを公に告白したのです。

それでは、ノアの洪水がバプテスマの型であるとはどういう意味でしょうか。

2.ノアの信仰と私たちの信仰

ノアの信仰

「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」(創世記6:9)と書かれています。

ここに書かれている正しいとか完全だとかいう言葉は、まったく罪がないということを意味してはいません。罪のない人は誰もいないからです(ローマ3:10)。これは、神さまに信頼し、神さまのみこころに従って生きようと努力している人のことを指しています。ノアはそういう人だったのです。

そして、ノアの信仰が発揮される機会がやってきました。それは、神さまが語られた次のことを信じるかどうかです。
  1. 大洪水が起こって、全地が滅びるということ。
    なお、天地創造からこの時代まで雨は1滴も降らず、湧き水が土地を潤していたと考えられます(2:6-5)。ということは、ノアは雨を見たことがなく、当然小規模の洪水を見たことがなかったのに、「神さまがおっしゃるのだからそれが起こる」と信じなければなりませんでした。
  2. 救いの道が用意されているということ。
    その救いの道が箱舟でした。他に救いの道はありません。ノアが大洪水の滅びから救われるためには、神さまの言われた通りに箱舟を造り、必ず神さまは守ってくださると信じて乗り込むしかありませんでした。
ノアは、この2つを信じました。そこで、言われた通りに箱舟を造りました。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」(創世記6:22)。この言葉は、その後も2回繰り返されています。

私たちの信仰

バプテスマは、救いの条件ではなく、私たちが信仰によって救われたことを公に表すための儀式だと申し上げました。

私たちもまた、ノアと同じように、自分の目で確認できないことを、神さまがおっしゃることだからということで信じました。

ノアの時代には水によって世界が滅びました。今のこの世界は、やがて火によって焼き尽くされ、滅ぼされると預言されています(第2ペテロ3:5-7)。しかし、救いの道が用意されています。イエス・キリストによる救いです。私たちはその救いを信じました。

罪の赦しは目に見えません。聖霊の内住も目に見えません。永遠のいのちも目に見えません。天にあるパラダイスも目に見えません。死後の復活も、永遠の祝福も、まだ体験していません。しかし、私たちは信じました。ちょうどノアが、雨も洪水も見たことがないのに、大洪水の発生と救いの方法を信じたように。

バプテスマは、そういう私たちの信仰、「まだ体験していないけれど、神さまのみことばだから信じる」という信仰を表現しています。

信仰の更新

バプテスマは1回限りのことです。1度イエス・キリストを信じたなら、神さまは何があっても決してその人を捨て去らないからです。ですから、2度も3度も受洗することは、神さまのみこころではありません。

しかし、バプテスマによって表現された信仰は、その時だけのものであってはいけません。その後も、毎日毎日、いや一瞬一瞬、更新され、成長し続けていくことが求められます。

外国籍の人が日本に帰化して日本人になったとします。国籍変更のための手続きは1回で完了です。何年かごとに審査を受け、それをクリアしなければ日本国籍が取り消しになるなどということはありません。その人は、それ以降日本人として生きることになります。しかし、国籍を変更したその時だけ、法律で日本人に保証されている権利を行使したり、義務を果たしたりするわけではありませんね。その後もずっとそれを行ない続けます。

クリスチャンも同じです。私たちがイエス・キリストを信じたとき、私たちは天国の市民権を得ました(ピリピ3:20)。日本と天国の二重国籍です。日本人として権利と義務を行使するのと同時に、天国の市民としての権利と義務も行使します。今までも、そしてこれからもずっとです。

私たちは、自分がまだ体験していないことを、神さまのみことばだからという理由で信じました。それは、これからもし続けなればなりません。

たとえ妨害があっても

おそらくノアは、その時代の人々に馬鹿にされたでしょうし、邪魔をする人もいたかもしれません。それが120年間も続きました。しかし、彼は神さまのみことばを信じ、信じ抜きました。そして、大洪水の滅びから救われました。

私たちが神さまの約束を信じたり、命令を果たそうとしたりするとき、必ず妨害が入るでしょう。サタンは決して見逃してくれません。しかし、ここで信仰が試されます。

「それでも私は神さまの約束を信じる」「それでも私はイエスさまの御心に従う方を選ぶ」と、宣言しましょう。そして、その信仰に応じた行動を選びましょう。それがあなた自身を祝福し、あなたを通して多くの人々を祝福します。

まとめ

私たちは、体験していないこと、確認できないことを、信仰によって受け取り、救われました。これからも信仰を働かせ続けましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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