へりくだりなさい

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第1ペテロ5章1〜14節

(2013.10.20)

参考資料

「長老」(1節)……元々は、ユダヤの会堂で指導監督や管理運営を任されたリーダーたちですが、それがキリスト教会にも引き継がれました(最初期の教会は、ユダヤ人だけで構成されていましたから)。長老たちの中でも、特にみことばを伝えて教える賜物を持った人が、いわゆる牧師と呼ばれる存在になっていきました。

「バビロン」(13節)……ペテロが晩年を過ごしたローマのことだと考えられています。

「私の子マルコ」(13節)……福音書を書いたマルコのこと。本当の子ではなく、子のような存在ということです。

聖書からのメッセージ

イントロ

この手紙のまとめの部分です。ペテロが最後に読者に強調したいと思ったことは何でしょうか。

1.謙遜であること

神はへりくだる者に恵みを与える

5章全体を貫いているテーマは、「謙遜」です。

特に、5節後半と6節に注目しましょう。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」。

リーダーシップに関する勧め

そしてペテロは、その謙遜さを具体的に現すよう勧めています。

リーダーに従う立場の人たちに対しては、ペテロは「従いなさい」と命じています。当然、謙遜でなければ権威に対して従順であることはできません。

これは、リーダーにはいっさい何も意見や願望を伝えてはいけないということではありません。自分の意見や願望をリーダーに伝えること、ただし攻撃的ではない態度で率直に伝えることは、むしろフォロアーとして大切なことです。しかし、その上で最終的にリーダーが決定したことに関しては、忠実に従うこと。そのようにしなさいとペテロは語っています。

また、ペテロは、教会のリーダー的役割の人たちに対しても謙遜を求めます。教会を治め指導するという役割について、「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい」

卑しい利得を求める心からするというのは、それでお金儲けをしようとするということも指すでしょうし、3節に「支配するのではなく」と書かれているように、フォロアーを支配することで自分のプライドを満足させるということも指すでしょう。自分の一言で他人や組織が動くというのは、気持ちのいいことです。

カルト的な集団のリーダーは、このような卑しい利得を求める心に囚われています。そして、リーダーシップを利用して信者を支配し、自分を高め、様々な利益をむさぼります。

これに対して、ペテロは「支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と勧めています。これまた、謙遜な心がなければできないことです。イエスさまが、自分は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たとおっしゃったことと通じます。

これらは教会のリーダーシップに限ったことではありません。夫婦や親子の関係においても、職場や学校やクラブ活動などにおいても同じことです。教えていることと実際にやっていることが一致しない親や指導者、あるいは部下の業績は自分のものにするけれど、部下の失敗については責任を取らないというような上司に、誰が喜んで従うでしょうか。

……私も自分で語っていて、耳が痛いです。

思い煩いに関する勧め

この世に生きていると、嫌でもいろいろな問題にぶつかります。このままだと将来大丈夫だろうかと心配になるようなこともあります。そんなとき、神さまが私たちの代わりに心配してくださるから大丈夫と信じてお任せし、心配するのをやめなさいとペテロは勧めています。

もちろん、神さまがただ心配しているというだけでは安心できませんね。心配してくださる神さまが、私たちの最善を願っておられ、幸せに至る計画を持っておられ、それを実現する力をお持ちだと信じるということを含みます。

ただし、何でもかんでも神さまに押しつけて、自分は何もしなくていいということではありません。たとえば、給料をもらった日に、それを全部使い切ってしまって、明日からちゃんと食べていけるだろうかという心配は神さまに任せる……もちろんこんなことはナンセンスです。

神さまは、私たちの一挙手一投足すべてをいちいち命令して支配しようとはなさいません。多くの部分で私たちに裁量権を与えてくださっています。私たちには理性が与えられています。将来を予想し、短期や長期の目標や計画を立て、それに従って行動することができますし、神さまはそうすることを求めておられます。与えられた収入をどのように使うか計画し、また将来の大きな支出や不意な支出に備えて貯蓄をするというのは、私たちに与えられている責任です。

たとえば、パウロは、「できるだけ多くの人々に福音を宣べ伝えなさい」という神さまのみこころに従おうとしました。そして、特に異邦人に対して伝道するようにというパウロ個人に与えられた使命を理解していました。ところが、具体的にどこで伝道するかということについては、基本的には自分で考え実行しようとしました。ローマ人への手紙には、まだ実現していないけれど、ローマに行って伝道し、さらにそこからイスパニア(スペイン)に行きたいと計画していることが書かれています。

しかし、どんなに一生懸命に考え、用意周到に準備していたとしても、それでも思わぬ問題にぶつかってしまうということはあることです。そんなときは、慌てふためいたりしないで、神さまが最も良い道へと導いてくださると信じてお任せしなさい。これがこの箇所で勧められていることです。

傲慢な心を持っていると、神さまにお任せすることができません。傲慢とは、偉そうにすることだけではありません。傲慢とは、何でも自分の知恵や力でどうにかできると信じる思いです。うつ病になった方が、医者にこう言われたそうです。「あなたは、自分の力で世界を救えると思っていませんか?」 もちろんそんなことは不可能です。だから、挫折感でいっぱいになり、心を病んでしまったのだよと。

健全な心配は、将来に対する建設的な備えを生み出します。しかし、過剰な心配は傲慢さの表れ。かくいう私も心配性です。お互いに悔い改め、神さまの前に謙遜になり、神さまのご計画におゆだねしましょう。

2.謙遜であるには

神さまの下につくこと

では、私たちが謙遜であるにはどうしたらいいのでしょう。謙遜とは、獲得するのが非常に難しい徳です。「自分も最近、謙遜になってきたなあ」と思ったら、それは傲慢の証拠かもしれませんからね。

6節にこう書かれています。「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」。ただし、自己卑下をすることが聖書の教える謙遜なのではありません。神さまとの関係の中で、自分を神さまの下にするというのが謙遜の原則です。

ですから、神さまがあなたの罪を赦し、あなたを神の子にしてくださり、あなたは私の目に尊い宝物なんだよと評価してくださっているのに、あなた自身が「自分は生きる価値もないダメ人間だ」と自己卑下をしているとしたら、それは聖書が教える謙遜ではなく、傲慢です。なぜなら、あなたの評価が神さまの評価よりも上になっているからです。

そもそも、救われるためには謙遜さが必要です。福音を信じて救われるというのは、自分自身の力や知恵によって救われることは無理だと自覚して、それをあきらめ、イエスさまに全部お任せすることだからです。

神さまに焦点を合わせる

謙遜であることそのものを追い求めると、いつの間にか自分自身にばかり目が行ってしまい、結果としてかえって傲慢の実を育てることになってしまいます。聖書が教える謙遜さを育てるためには、神さまに焦点を合わせましょう。

神さまはどう評価しておられるでしょうか。それを学ぶ。そして、それを受け入れる。たとえ、自分の感覚に合わなかったとしても。

神さまは何を命じておられるでしょうか。それを学ぶ。そして、それを受け入れる。たとえ、自分としてはそうすることが苦しかったり、嫌だったり、損だなと思ったりしても。

まとめ

私たちは、いつの間にか、神さまよりも偉くなってしまってはいなかったでしょうか。自分の感覚とか、判断とかを神さまの教えよりも優先していなかったでしょうか。もしそうだとしたら、すぐに悔い改めましょう。

そのようにして謙遜に神さまに従うとき、神さまは豊かな恵みをもって応えてくださいます。人生が平安や喜びや力に満ちたものとなります。

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