律法と神の愛

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出エジプト記20章1〜17節

(2013.11.10)

参考資料

エジプトを脱出したイスラエルは、シナイ山にやってきます。そして、ここで律法(神さまがイスラエルに守るよう命じた様々な命令)が与えられます。その最初に語られた10の命令が、いわゆる十戒です。10区分の仕方にはいくつかの説がありますが、一般的なのは以下の区分です。
  1. ほかに神があってはならない
  2. 偶像を造ってはならない
  3. 主の御名をみだりに唱えてはならない
  4. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ
  5. 父と母を敬え
  6. 殺すな
  7. 姦淫するな
  8. 盗むな
  9. 偽証するな
  10. 他人のものを欲しがるな
「安息日」(8節)は、一週間のうちの最後の日、すなわち土曜日のこと。この日、ユダヤ人は仕事を休んで、神さまがイスラエルを救ってくださったことを覚えます(申命記5:15)。

聖書からのメッセージ

イントロ

現代の、しかも異邦人である私たちにとって、十戒やモーセの律法はどんな意味を持っているのでしょうか。

1.モーセの律法からの解放

モーセの律法は無効とされた

十戒とか律法とかいう言葉を聞くと、何か堅苦しくて恐ろしいニュアンスを感じてしまう方はおいででしょうか。新約聖書の神さまは愛にあふれているのに、旧約聖書の神さまは、規則と命令ばかりで、短気で無慈悲で恐ろしいイメージがあるとおっしゃる方も、結構いらっしゃるようです。あるいは、もうすでに様々な重荷を抱えているのに、「神さまを信じたら、今以上に重荷を負わされるのか」と、躊躇なさる方もおいでです。

しかし、ここでぜひ知っておいていただきたいことがあります。それは、旧約聖書の様々な律法を、現在の私たちクリスチャンが守る必要はまったくないということです。もちろん、十戒もです(十戒だけを他の律法と区別して特別視するのは、聖書的ではありません)。

旧約聖書の時代で、イスラエルにモーセの律法が与えられて以降は、ユダヤ人はもちろんモーセの律法に従って生活しなければなりませんでした。それだけでなく、ユダヤ人を通してまことの神さまを信じるようになった異邦人(ユダヤ人以外の民族)も、割礼を受け、モーセの律法に従って生活しなければなりませんでした。

ところが、イエス・キリストが地上に来られ、十字架にかかって血を流されたとき、律法の時代が終わり、新しい恵みの時代がやってきました。聖書は、モーセの律法がイエス・キリストの十字架によって無効とされたと、はっきりと宣言しています。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4)

神の民イスラエルでさえも、律法の要求を完全に満たすことはできませんでした。かつて律法を重んじるグループに属していたパウロは、こう言っています。

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:14-24)


しかし、パウロは続く25節で、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と叫んでいます。律法を守りきれず、神に逆らうようなことを思ったりやったりしてしまう私たちのために、イエスさまは、私たちの罪の罰を全部身代わりに負ってくださいました。

仮に律法を守らなければ神さまに呪われるのだとしても、その呪いはもうすでに十字架のおかげで無効となりました。律法を守る責任から、私たちは解放されたのです。

新しい基準

さて、十戒には「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」などと書かれています。私たちがモーセの律法から解放されているのなら、殺したり盗んだり姦淫したりしてもいいのでしょうか。

いいえ、それはダメです。イエスさまが十字架にかかられて以降に書かれた新約聖書でも、引き続き殺人や盗みや姦淫は神さまの望まれる行為ではないことが教えられています。私たちはモーセの律法からは解放されましたが、新しい基準が与えられているのです。

江戸時代、殺人は罪でした。江戸幕府が滅びたことで、幕府や藩が定めた様々な法度(法律)は無効になり、代わりに明治政府の定めた法律が有効になりました。その新しい法体系の中でも、殺人は罪です。今の私たちは堂々と殺人を犯したりしませんが、江戸時代の法律に従ってのことではなく、新しくできた刑法に従ってのことです。モーセの律法と、新約聖書の教えもこれと同じです。

新しい導き

しかし、古い律法が無効になり、新しい律法ができただけだったら、以前のイスラエルと同じことです。私たちは、誰も神さまの要求を完璧に果たすことなどできません。

もちろん、たとえ失敗したとしても、イエス・キリストの十字架の赦しを信じて、自分の罪を告白するならば、神さまとの関係を回復することができます(第1ヨハネ1:9)。

それだけでなく、私たちには神さまのみこころを教え、それを行なう力を内側から与えてくださる助け手が与えられています。聖霊なる神さまです。イエス・キリストを信じたとき、すべてのクリスチャンの心の中に、聖霊さまは住んでくださいます。

そして、今の私たちには、内に住んでくださっている聖霊なる神さまの導きに従う責任があります。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(ローマ8:4)

私たちが心を開くなら、聖霊さまはいつでも「こうした方がいいよ」「それはやめた方がいいよ」と、語ってくださっていることに気がつくでしょう。

聖書を読む時、「聖霊さま、どうか意味を教えてください」と祈りながら読むならば、真の著者である聖霊さまが、その意味を教えてくださいます。

私たち自身の常識とか、願いとか、こだわりとかによって、聖霊さまのお働きを制限しないようにしましょう。「自由にお働きください。自由にお語りください」と、今、祈りましょう。

2.神の愛に目を留めよう

十字架に込められた神の愛

私たちがモーセの律法から解放された根拠は、イエス・キリストの十字架だと申し上げました。イエスさまの犠牲の血によって、私たちの罪は、過去の罪も、現在進行形の罪も、これから死ぬまでの間に犯すであろう罪も、すべて完全に赦されました。

神さまは、あなたを愛しておられます。怒ってはおられません。何をしても、何を言っても、何を考えても、です。決して神さまは、あなたを捨てたり、ばちを当てたりなさいません。

そんなことを言うと、人間が堕落すると思われますか? いいえ、逆です。この私のことを神さまが命がけで愛していて下さると知った時、人間は堕落するどころか、神さまを悲しませるようなことはするまいと決心するものなのです。私たちが自分でも良くないと思うような行動をする時、それはむしろ神さまの愛を信じていない時ではないでしょうか?

ですから、いつも私たちはイエスさまの十字架を思うことが大切です。何をすべきか、何をすべきでないかということを考える前に、どれだけ愛されているかということを思い出すことが大切です。

律法は愛のことば

そして、新約聖書に描かれている神さま、イエス・キリストを地上に送り、私たちの罪を赦して神さまの家族に迎え入れ、今も優しく見守り導いてくださる神さまは、旧約聖書に描かれている神さまと同じお方だということを、いつも忘れないようにしなければなりません。

イスラエルにモーセの律法を与えた神さまは、イスラエルを縛り付け、いじめるためにそうなさったのではありません。神さまは、イスラエルに対するあふれる愛によって、律法をお与えになりました。

ここで、2節のことばをお読み下さい。神さまは、ご自分を解放者として現された後に、十戒を語られました。十戒と訳されている言葉は、元々は「十のことば」という意味で、「戒め」というような、人を縛り付けるニュアンスはありません。十戒は、イスラエルを縛る「十の拘束帯」ではなく、イスラエルを解放して自由にする「十の愛のことば」なのです。

たとえば、第2戒の「偶像を造るな」ですが、私たちは木や石で神の像を刻まなくても、頭の中に神さまのイメージを造り上げてしまうことがあります。限界のある力無い神、ちょっとでも間違いを犯すとばちを当てる怖い神、閻魔帳片手に私たちを監視する意地悪な神、ひいきする神、金にどん欲な神、ギブ・アンド・テイクのビジネスライクな神……。そのようなイメージは、信仰者の喜びや自由を損ないます。偶像は、信仰に限界を生むのです。だから、偶像を造らないようにしなさいと勧められているのです。

第10戒の「他人のものを欲しがるな」も同様です。自分と他人を比較して、今自分に与えられているものを感謝できないと、嫉妬心で苦しむことになります。自分自身を大切にできなくなります。自分に対する正しい誇りを失ってしまいます。愛と知恵に満ちた神さまは、今私たちに最高のものを与えてくださっています。十戒は、今与えられているものを感謝し、最大限に生かすことを求めています。それが、私たちの人生を喜びと希望に満ちたものとするからです。

そのほかの定めも同じことです。

神はどういうお方か

今の私たちはモーセの律法を文字通り守る必要はありません。しかし、イスラエルに律法を与えられた同じ神さまを信じる者として、神さまがどういうお方なのかということを、モーセの律法を通して学ぶことができます。
  1. 神さまは私たちを愛し、私たちを大切な存在だと願っておられます。
  2. 神さまも、私たちがご自身を何よりも愛し、大切にすることを願っておられます。
  3. 神さまは、神さまが愛しておられる他の人たちに対して、私たちが愛を表すことを願っておられます。
何をすべきか迷った時、この3つのことを考えてみましょう。「どうしたら神さまの愛がもっと分かるだろうか?」「どうしたら神さまへの感謝や信頼を表現することになるだろうか?」「どうしたら、他の人への愛を表せるだろうか?」 これを自問してみるのです。

すべし、すべからずの重荷だらけの人生にはおさらばしましょう。イエスさまを通して与えられた自由な人生を、今週も喜びと共に歩んでいきましょう。

まとめ

旧約聖書に表されている神さまのすばらしさを、もっともっと味わいましょう。

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