神の子として

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ヨハネの第一の手紙3章1〜3節

(2013.11.17)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

聖書は、私たちを神の子と呼んでいます。このヨハネの手紙は、私たち神の子どもがどういう立場なのか、そして、その立場にふさわしい生き方はどういうものであるのかを教えてくれています。

1.「すでに」という生き方

すでに

神の子という立場に関して、ヨハネははっきりと宣言しています。「私たち神の子と呼ばれている。いや、呼ばれているだけでなく、事実すでに神の子どもとされているのである」と。これからそうなるのではなく、すでにそうだというのです。

この「すでに」神の子であり、「すでに」神の愛に包まれており、「すでに」神の全能の御手の中に守られ、支えられているという認識は、私たちクリスチャンにとって、ぜひとも必要なものです。

「すでに」の信仰があれば、私たちはどんな状況の中にあっても、たとえ失敗したとしても、喜び、平安を得、希望に満たされていることができますね。

ギブ・アンド・テイク

しかし、私たちは、あまりにもギブ・アンド・テイクの価値観に慣らされていますので、すでに私たちが救われ、愛され、癒され、圧倒的な神さまの祝福の中にあるという事実を受け入れがたく思ってしまいます。

そして、祝福されるためには、その代価として、何かを達成したり、何かの条件を満たしたりしなければダメだと思ってしまうのです。聖書を通読しなければ、一日3時間以上祈らなければ、毎月献金を○○円以上しなければ、礼拝に○○回出席しなければ、もっと優しい人間にならなければ、神さまからの祝福は来ない、と。

また、悪魔も、私たちが「すでに」の信仰を持って喜ぶことを嫌がりますから、全力で妨害にかかります。私たちがちょっと失敗すると「ほら、そんなお前が愛されているはずがない」、ちょっと問題の解決が長引けば「ほら、神さまはお前なんか愛していないから、放っておかれるんだ」と、耳元でささやいてきます。

何という大きな愛だろう

しかし、聖書は言います。私たちはすでに神さまの子どもです! 私たちはすでに神さまに愛されていて、すでに神さまからの祝福は注がれています。

証拠があります。それは、イエスさまが私たちの罪の身代わりに死んで、復活してくださったことです。神さまは、私たちを救い、私たちを祝福したいと思われたのです。すでに。ですからイエスさまを送って、罪を取り除き、堂々と私たちを祝福できるようにしてくださったのです。

イエスさまを信じたから、私たちが神さまに愛されるようになったのではありません。神さまは、私たちがまだ悔い改める前から、いや生まれるずっと前から私たちを選び、愛してくださっていました。だから、イエスさまがこの世に送られたのです。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、父なる神さまのどんなにすばらしい愛が与えられたことかと、1節でヨハネは感嘆の声を上げています。この節は、ギリシャ語原文を読むと、「何という大きな愛だろう」という言葉から始まっています。もう少し直訳ふうに訳すと「この世のものとは思えないような愛だ」という言葉です。神さまの愛は、私やあなたの想像を超えるほど大きいのです。

すでに、すでに、すでに! 神さまの愛はあなたに注がれています。自分は、すでに神さまの圧倒的な愛の中にある。そこから一日を始め、一日を終えたいと思います。

2.「これから」という生き方

はっきりしていること

「後の状態はまだ明らかにされていません」と書かれています。明日、私たちの一日がどうなるか、具体的には分かりません。しかし、はっきりしていることもあります。それは、この世の終わりに、私たちが天に引き上げられ(たとえすでに死んでいてもよみがえります)、イエスさまと直接お会いするということ、そして、その時に、私たちはイエスさまのように造り変えられるということです。

これは、大きな慰めであり、希望です。私は弱く、なすべきことができなかったり、してはならないことをしてしまったりします。無意識の場合もありますし、意識して積極的にそうしてしまうこともあります。

イエスさまの十字架によって、私は神さまに赦され、受け入れられていると信じていますが、同時に、ただ赦されるだけでは嫌だと思っているのです。成長したい。もっと人生によい実を結びたい……。

そんな私が、あのイエスさまのように造り変えられるというのです。イエスさまは愛の人でした。しかし、弱い方ではなく、こうと決めたら、どんな困難があってもそれをやり通す強さをお持ちでした。祈りの人であり、同時に行動の人でもありました。忍耐強く、同時に自分の気持ちを正直に表現することもできました。

最大の奇跡

イエスさまは多くの奇跡をなさいました。水をぶどう酒に変え、5千人分の食事を一瞬で用意し、嵐を鎮め、死人をよみがえらせました。旧約聖書にも、たくさんの奇跡が記録されています。

奇跡とは、神さまによって、通常では不可能な出来事が起こることです。しかし、もっとも不可能なことは、この私が造り変えられることだと、私は思っています。

何度悔い改めたことでしょうか。何度、「もうしません」と誓い、「これをします」と約束したでしょうか。しかし、私は罪を犯してしまいます。分かっているのに、神さまのみこころを行えないことが一日に何度もあります。私が変わるなんて、不可能です。自分は何とみじめな人間だろうと嘆いたパウロの叫び(ローマ7章)は、私の心の叫びでもあります。

しかし、神さまは、その不可能を可能にしてくださると言います。このまったく不可能な奇跡の約束を信じることができたとき、私は私の将来が神さまの祝福に満ちあふれていることを信じることができました。

祝福に満ちた一日

永遠の昔から、神さまはすでに私を選び、神の子として愛してくださっていました。そして、この世の終わりの時、私をイエスさまに似たものに造り変えてくださいます。この世の始めと終わりに私にこんな祝福があるのなら、その間の時期にも、神さまの愛は満ちあふれていると信じて良いはずです。

あなたはお信じになりますか? 今日という一日が、神さまの祝福に満ちあふれた一日だと。そして、明日も明後日も、来週も、来年も、十年後も、死に至るまで、そして永遠に、祝福があなたの人生に満ちあふれていると。何が起ころうとも、その出来事の内には、神さまの宝が満ちあふれていると。

そう信じ、告白してください。

3.「今ここ」という生き方

恐ろしげな表現

ヨハネは言います。彼(キリスト)に対するこの望みを抱く者、すなわち第1・第2のポイントでお話ししたようなことを、キリストにあって信じ、受け入れた人は、キリストがきよいように、自分をきよくする、と。

そして、続けてこんな恐ろしげな表現を使っています。
  • 「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」(6節)
  • 「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です」(8節)
  • 「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」(10節)
うわぁ、じゃあ、自分は神の子ではないのか、悪魔の子なのか……と思ってしまいます。なぜかと言えば、私は今も罪を犯すし、神さまのみこころを行えないことがしょっちゅうあるからです。

もちろん、ヨハネが語っているのはそういう意味ではありません。あなたがイエスさまによって、自分の罪が赦されたと信じたのなら、ついつい罪を犯してしまうそのままの姿で、神さまに愛されている、神さまの大切な子どもです。

グノーシス主義

この手紙は、グノーシスという異端の教えから教会を守るために書かれました。グノーシス主義の教師たちは、「霊と体は全然別物なので、体がいくら罪を犯しても霊に影響はない」と教えました。ヨハネは、こういう考えは誤りだとこの手紙の中で語っているのです。

イエスさまが、私たちの罪を取り除くために、ご自分の尊い命を犠牲にしなければならなかったということを、決して忘れてはいけません。罪が霊に影響を与えないなら、どうしてイエスさまは死ななければならなかったのでしょうか。

神さまは、私たちと親しい交わりを持ちたいと願っておられます。そのために、私たちが神さまのみこころに従って生きていくことを望んでおられます。罪は、私たちと神さまとを引き離すからです。

ですから、イエスさまの十字架の愛、そして私たちを神の子どもに迎え入れてくださった父なる神さまの愛を知った私たちには、神さまのみこころに従って生きていきたいという思いが与えられます。「罪なんて関係ない。いくら犯したっていいんだ」……そういう発想が出てくるはずがない。6、8、10節でヨハネが言おうとしていることは、そういうことです。

神の愛を信じたら

時々、こんな質問を受けます。「罪のあるまま、そのままで愛されているなんて言っていたら、つけあがって努力しなかったり、ますます罪を犯すようになりませんか?」

いいえ、逆です。イエスさまの圧倒的な愛を感じたら、罪なんて犯せません。私たちが罪を犯すのは、神さまの愛を忘れ、感動を見失っているときしまっているときです。

もちろん(そして残念ながら)、私たちは弱いですから失敗します。しかし、それでも、聖霊によって気づかされたとき、悔い改め、再び神さまのみこころにかなう生き方へと方向転換しようとします。きよい生き方がしたいという思いがわき上がってきます。

そうして、聖霊なる神さまが私たちの心の内に働き、私たちが少しずつきよい生き方ができるように造り変えてくださるのを、心から歓迎するようになります。

聖霊さまは紳士ですから、私たちが嫌がっているのに、無理やり私たちを造り変えることはなさいません。私たちが、神さまの愛に感動していれば、当然、聖霊さまのお働きも歓迎するのです。

こうして、少しずつ少しずつ、私たちは神さまのみこころにかなう生き方へときよめられていきます。完成するのはこの世の終わり、天国に行ったときです。しかし、今この地上で、私たちは神さまのみこころをもっと求め、それに従う力を求めましょう。

そして、それは私たちの努力によってできることではないということも知っておきましょう。私たちがまず知らなければならないことは、第1・第2ポイントで学んだように、この人生に神さまの愛と祝福が満ちあふれているということ、だから大丈夫なんだということです。

まとめ

自分がいかに神さまに愛されているかを、いつも思い起こし、自分の心に向かって教え聴かせましょう。

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