私たちの目標

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テモテへの第1の手紙1章3〜7節

(2013.11.24)

参考資料

テモテは、パウロが最も愛した弟子の一人です。エペソに遣わされ、そこで牧師として活動しました。まだ若く、少し気弱なところがあったようで、パウロは心配して手紙を送っています。今回の箇所は、偽教師たちに警戒するようにとの教えが書かれています。

聖書からのメッセージ

イントロ

先日、カウンセラー仲間と話をしていました。その人の所には、教会の中で傷ついて、相談にいらっしゃる方がたくさん来られるのだそうです。実は、私も、こういうサイトを運営しているせいか、同様のメールをたくさんいただいています。

それらの方々の訴えの多くは、メッセージを聞いたり、指導をされたり、先輩クリスチャンたちと話をしたり、聖書を読んだりしていると、窮屈な感じがして、苦しくなるというものです。

イエスさまは、平安を与え、喜びと感動を与えるために私たちを召してくださいました。それなのに、私たちはいつの間にか、間違った掟、かえって苦しくなるような掟を心の中に作り上げ、またそれを人に伝えては来なかったでしょうか。平安や喜びに満ちたクリスチャン生活は、どうしたら手にはいるのでしょうか。

1.目標は愛の実現

執筆事情

宛先であるテモテは、パウロの弟子です。エペソで協会を指導していたパウロは、マケドニア(今のギリシャ北部)に向かうことにしました。当時は、教会成長に比べて、伝道者・牧師の数が圧倒的に足りませんでした。そこで、指導者たちは、あちこちの教会を巡回しながら、教会を指導して歩いたのです。しかし、エペソの教会もまだまだ指導が必要だったので、テモテをエペソの町に残しました。

パウロは、テモテを信頼していましたが、同時に心配もしていました。それは、偽教師による間違った教えが、エペソ教会に悪影響を与える危険があったからです。

旧約聖書には、様々な歴史が書かれています。ある事件については大変詳しく書かれていますが、別の事件については簡単にしか書かれていません。それは、神さまが人間に伝えたいと思っていらっしゃるテーマに、あまり関係ないことだからです。

ところが、ユダヤの一部の教師たちは、その簡単にしか書かれていない部分、事件と事件の間の全く記述がない部分の物語を、想像力をたくましくして作り上げていきました。また、聖書の中に出てくる人物の名前や系図を元にして、これまたいろいろな物語を作り上げました。

これが今回の箇所で触れられている「果てしのない空想話と系図」です。それらの中には教訓的な内容もあったかもしれません。しかし、聖書にはっきりと書かれていることを元にしたものではなく、あくまでもそれぞれの学者が勝手に想像したものです。そこで、様々な物語が生まれ、それが議論を生じさせていました。もちろん、その議論がまとまるはずがありません。

そこで、パウロは、そのようなファンタジーに無駄な時間とエネルギーを奪われないよう、現実的に教会を指導しなさいとテモテに警告したのです。

目標をしっかり自覚する

では、現実的な指導とは何でしょうか。パウロは、テモテが行なう指導や命令は、愛を目標としなければならないと語りました。空想話や系図にこだわる偽教師たちの教えは、人々から愛を引き出すものではないと断じたのです。

私たちが人の言動について指摘したり、指導したりする際、愛が基礎になっているかどうか確認しましょう。
  • いつの間にか、自分の優位性を証明するための指導になっていなかったでしょうか。
  • いつの間にか、自分がお役に立てる有能な人物であることを証明するためのアドバイスになっていなかったでしょうか。
  • 相手の努力や工夫などの肯定的な面を無視して、ただ結果だけで否定的な評価をしていなかったでしょうか。
  • その時の気分次第で、相手の言動に対する評価を変えてはいなかったでしょうか。
また、聖書の教えが愛を目標にしているということは、指導の場面だけでなく、私たちのあらゆる活動の目標が愛だということです。私たちが何かをするとき、それは人々を幸せにすることにつながっているでしょうか。

2.私たちに注がれる神の愛

神から私たちへの愛の実現

聖書の教えの目標は愛の実現ですが、それは私たち人間同士が愛し合うようになることだけではありません。聖書は、神さまが私たちを愛してくださっていることを、繰り返し教えています。

その最大の証拠が、イエスさまの十字架です。イエスさまは、私たちの罪が赦され、私たちを天の父なる神さまの子どもにして、神さまとの深い愛の交わりを回復させるためなら、ご自分のいのちを犠牲にしても惜しくないと思われました。

イエスさまがご自分の命を捨てても惜しくないと思われるほどに、あなたのことを大切に思ってくださっているのですから、あなたがあなた自身のことを大切にするのは当然です。

自己犠牲は自分を粗末にすることではない

しかし、自分を大切にすることを求めるのは、自己中心的なのではないでしょうか。確かに、聖書は、最大の愛は自己犠牲だと教えています。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)

夫婦に関する教えでも、妻は夫に従い、夫は妻のために死ぬことを教えています(エペソ5:22-33)。要するに、自己犠牲的に相手に仕えなさいということです。親子の関係、雇い主と労働者の関係でも同じです(エペソ6:1-9)。

ただ、自分をゴミのように粗末にしている人が自分を犠牲にしたとしても、それはゴミをプレゼントとしてささげるようなものですね。

本当の意味で、自分も大切にしよう

自分を大切にするというのは、短絡的に、今目の前の快楽を追い求めるということではありません。たとえば、刹那的な幸福感のために暴飲暴食を繰り返し、それで体を壊してしまったら、それは自分を大切にしているとは言えません。

また、自分を大切にするというのは、自分の幸福のために他人を犠牲にしても気にしないということでもありません。たとえば、自分の欲求のままに自己中心的に振る舞い続け、それで家族や友人たちとの関係がおかしくなってしまい、孤独になるとしたら、それは自分を大切にしているとは言えません。

今、あなたがやっていること、やろうとしていることは、本当の意味であなたに永遠に続く幸せをもたらすものですか? それは永遠に続く価値につながることですか?

まとめ

愛を目標として、一瞬一瞬の言動を整えましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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