わたしは主である

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レビ記19章1〜18節

(2014.1.12)

参考資料

レビ記には、モーセの律法の内容が事細かに記されています。

「安息日」(3節)……土曜日(正確には、金曜日の日没から土曜日の日没まで)。イスラエルは、この日はいっさいの労働をやめて休息しました。

「和解のいけにえ」(5節)……酬恩祭とも訳されます。いけにえの脂肪を祭壇で焼いて神さまに捧げ、胸とももの部分は祭司が食べ、残りを礼拝者が聖所で食べました。感謝のいけにえ、誓願のささげもの、進んで捧げるささげものの3種類があり、その意味は、神さまの恵み(過去、あるいは未来の)に対する感謝と賛美です。

聖書からのメッセージ

イントロ

旧約聖書には、様々な命令と禁止(モーセの律法)が書かれています。その内容は、刑法、民法、道徳規準、食事規定、祭儀の手順など多岐にわたり、イスラエルの人たちの行動の基準となりました。

では、異邦人(外国人)であり、イエスさまを信じている私たちは、モーセの律法に対してどのように考えたらよいのでしょうか。

1.二つの極端な立場

モーセの律法を守るべしという立場

一つは、クリスチャンは、ユダヤ人であるなしにかかわらず、とにかく旧約聖書の律法を守らなければならない、という立場です。

たとえばモーセの律法の中に、殺すな、盗むな、姦淫するなと書いてある。だから、殺人、盗み、結婚外の性的関係はいけないのだ、ということですね。

戦後の日本は、価値観が大きく転換し、道徳的な規範まで相対的になってしまいました。その結果、様々な混乱を引き起こしています。ですから、このようにしっかりとした道徳的規範を持って生きることは大事ですね。

この立場の問題点

しかし、この立場には問題があります。もし私たちが、今もモーセの律法の中の道徳的な規定を守らなければならないのだとすれば、同じく律法の中にある食事規定や祭儀規定も守らなければならないということになります。

イエスさまはこうおっしゃっています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(マタイ5:17-18)

となると、私たち異邦人クリスチャンも、礼拝の際には動物犠牲を捧げなければなりませんし、その辺の店で売られている肉で作ったステーキや、ミルクシチュー、トンカツ、にぎり寿司の多くは食べられなくなります(完全に血を抜かない肉はダメ。肉を乳と一緒に煮てはダメ。豚肉はダメ。うろこやひれのある魚以外の、たとえばエビ、イカ、タコ、シャコ、貝類、ウナギ、アナゴなどはダメ)。なんと、どれも私の好物ではありませんか!

ある人たちは、律法を道徳律法、市民律法(刑法など)、祭儀律法に区別して、道徳律法は今も有効だが、他は無効になったと主張して、この問題をクリアしようとします。しかし、そのような区別は、後の学者が便宜上つけたものであって、聖書自身はトーラー(律法)を全体としてひとつのものとして見ています。聖書のどこにも、「律法のうち、道徳的な部分を除いて、あとは無効になった」などという記述はありません。

むしろこう書かれています。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」(ヤコブ2:10)。私たちがモーセの律法を守らなければならないのであれば、すべて守らなければなりません。そして、その一つでも違反すれば、律法全体に違反したと見なされます。

そもそもこの立場は、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4)という聖書の教えに反します。

神の命令などどうでもいいという立場

もう一つの極端な立場は、神の命令などどうでも良いという立場です。

私たちは、イエスさまの十字架により、律法の行ないによらず、恵みにより、信仰によって、ただ一方的に神さまに受け入れられます。私たちは、救われるために、あるいは神さまからの祝福をいただくために、律法を守る必要は全然ないのです。これが福音です。

では、「好きなときに、好きなことを、好きなようにしていい。たとえそれが犯罪であっても」などと言われると抵抗を感じませんか?

また、新約聖書の手紙の中で、使徒たちはクリスチャンが「正しい」生き方をすることができるよう、一生懸命に勧め、訓戒し、時に叱責すらしています。福音を信じるだけで救われたクリスチャンにも、やはり「正しさ」の基準となるものがあるのではないでしょうか。これはいったい、どう考えたらいいのでしょうか。

そこで、今回の箇所に繰り返し出てくるキーワードに着目してみましょう。

2.わたしは主である

神の名

レビ記19章に繰り返し出てくる言葉は、「わたしは主である」という言葉です。

この「主」という言葉は、新改訳聖書では太文字で「」と印刷されており、原語では神さまの名前が記述されています。発音の仕方が分からないのでこう訳されているのですが、研究によると「ヤハウェ」というのが、もっとも近いのではないかと言われています。

「わたしはあなたの神、ヤハウェだ。その私があなたに命じ、あなたにお願いをするのだが……」というわけです。

誰かの名によって語るとき

さて、「ある人の名によって」何かが語られたとき、その言葉を無視したり、軽くあしらったりすると、それはその名の持ち主に対する侮辱と受け止められます。

第一サムエル記25章で、サウル王に命を狙われ、各地を放浪していたダビデは、かつて良くしてあげたナバルという人の土地に近づきます。そこでダビデは人を遣わし、「私の名によってあいさつし、何か与えてくださいとお願いしなさい」と使者に命じます。

しかし、ナバルは願いを拒否したばかりか、「ダビデとは何者か」と、その名を侮辱しました。かんかんに怒ったダビデは、四百人の手勢を率いてナバルの宿営を攻撃しようとします(このときは、ナバルの妻アビガイルの機転によって、ダビデの怒りは鎮められ、大虐殺は回避されましたが)。

神はどういうお方か

神さまは、「わたしはヤハウェである」と、ご自分の名前を使って、イスラエルの人々に様々な命令や禁止をなさいました。そうおっしゃる神さまは、いったいどのようなお方なのでしょうか。

「本当にこいつらは自分の命令をきちんと守るのだろうか」と、疑い深い目で見ながら命令を下し、ちょっとでも失敗しようものなら、あのときのダビデのように烈火のごとく怒って、直ちに天罰を下す……そういう神さまは聖書の神さまではありません。

また、人間のことなんてほとんど関心がなくて、人間が何をしようとも問題にしない……そういう神さまも聖書の神さまではありません。

私たちは、神さまの性質を自分勝手にイメージしてしまいます。本当にそれは、聖書が教える神さまイメージでしょうか。

使徒ヨハネは神さまのことを一言でこう表現しました。「神は愛です」(第一ヨハネ4:16)。人となった神、イエス・キリストは、私たちをそのままで(たとえ律法を守れなくても、周りの人や自分が自分のことをどう評価しても)愛し、救い、祝福するために、ご自分の命を十字架でささげてくださいました。そのようにして神さまの愛が表現されています。

愛である神さまの願いは、私たちの幸せなのです。私たちは、この点から神さまのみこころにかなう生き方を探っていかなければなりません。

3.愛が基準

律法の要約

レビ19:18には、イエスさまが律法の要約として引用した言葉が語られています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」

愛である神さまは、あなたを愛し、あなたの幸せを願っています。そして、同様に、あなたの隣の人の幸せも願っています。

「私は主である」とおっしゃる神さまは、実はこう語っておられるのです。「今あなたがしようとしていることは、本当にあなたの幸せにつながりますか? そして、他の人の本当の幸せにつながりますか?」

私たちの動機

恵みの時代を生きている私たちは、モーセの律法に「盗むな」と書いてあるから盗まないのではありません。自分の中の貪欲をコントロールし、また他の人の権利を尊重することが、自分や他の人を愛することだから盗まないのです。

また、殺さないのも同じです。

姦淫(配偶者以外と性的関係を持つこと)しないのも、たとえ世の中の人がそれを「愛」と呼んだとしても、そんなものは本当の愛ではなく、かえって自分や周りの人たちを苦しめる結果になりがちだからしないのです。

愛の律法に従って

今、あなたは様々な掟から解放されています。何をしてもいいのです。しかし、すべてが有益だとは限りません(第1コリント10:23)。自分と他の人の真の幸せになることをしましょう。これが、命がけで神の愛を伝えてくださったイエスさまの、新しい愛の律法です。

まとめ

愛の律法によって、今あなたが行なっていることを評価してみましょう。イエスさまはあなたに何かの決断を迫っておられますか?

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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