誇る者は主を誇れ

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コリント人への第一の手紙1章10〜31節

(2014.2.2)

参考資料

1:10から4:21まで、教会内の分派分裂についての指導がテーマです。

12節のアポロは、パウロの後にコリントを訪問した伝道者で、すばらしい説教者でした。ケパは使徒ペテロのこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

分派分裂は、迫害よりもさらに効果的に教会の力を削ぎ落とします。それは会社や家庭など、他の組織でも同じです。聖書は、分派の問題にどのような回答を与えているでしょうか。

1.コリント教会内の分派

4つの派閥

クロエ家の人がパウロにもたらした報告によると、コリント教会には少なくとも4つの派閥があって、互いに争っていました。おそらく、他のグループの人たちを非難したり、馬鹿にしたりしていたのでしょう。

コリント教会にあったのは、パウロ派、アポロ派、ペテロ派、そしてキリスト派でした。
パウロ派
パウロはコリント教会の創設者です。いわば、初代牧師ですね。当然、教会内にはパウロのファンがたくさんいたことでしょう。
アポロ派
アポロは、パウロの後にコリントを訪れた伝道者でした。彼は非常に優れた説教者でした。

一方、パウロに関しては、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない」と評価する人がいたようです(第2コリント10:10)。比較してアポロを支持する人もたくさんいたことでしょう。
ペテロ派
ペテロ(ケパ)はイエスさまの直弟子であり、十二使徒のリーダーと目された人でした。イエスさまと寝食を共にしていないパウロやアポロよりも、さらに権威があると考える人がたくさんいたことでしょう。
キリスト派
4つめの派閥はキリスト派です。

パウロもアポロもペテロもすばらしいクリスチャンであり、指導者ですが、単なる人間に過ぎません。その点、人となられた神であり、世界の王であるイエス・キリストとは比較になりません。その意味で、「パウロでもアポロでもペテロでもなく、キリストをあがめよう」という姿勢は間違っていません。

問題なのは、その動機でした。他の3つの派閥と同じような動機で、「私はキリストにつく」と言っている点が問題だったのです。その動機とは何でしょうか。

2.分派の動機

プライド

パウロは、私たちの救いの土台である福音について語った後、このようにまとめています。「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(29節)「まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(31節)

キーワードは「誇り」、すなわちプライドです。

コリント教会に生じた分派分裂の背後には、間違ったプライドがありました。自分たちのグループが他よりも優れているのだということを主張することによって、自分の誇りを満足させようとしているということです。

表面上は、「自分たちのグループが信じている教えの方が、より聖書的だ」と語っているかも知れません。あるいは「自分たちのグループの行ないの方が熱心だ」「自分たちのグループの方がきよい」「自分たちのグループの方がより神さまのみこころを大切にしている」などと語っているかも知れません。

しかし、要するに言いたいことは、「ダメなグループに属している連中はダメで、それに比較して、素晴らしいグループに属しているこの私は、なんとすばらしい存在なのだろうか」ということです。そして、そのためにパウロだのアポロだのペテロだのという伝道者たちの権威を利用しているのです。

キリスト派の問題は、「キリストにつく」という表面上の言葉は正しくても、動機が他の派閥と同じく、自分たちのプライドを満足させるためだということです。

学校や職場などでのいじめも根っこは同じですし、傲慢な態度なども同じです。

プライドと信仰は相容れない

私たちが、自分の行ないの正しさや知恵深さや熱心さなどによって救われたのなら、私たちは自分を誇ることが許されるでしょう。しかし、私たちは、神さまの一方的な選びと、イエスさまの十字架の犠牲によって救われました。それは、私たちのプライドを打ち砕き、ただただ神さまがほめたたえられるためです。

プライドと信仰は相容れません。プライドは信仰を骨抜きにします。そして、プライドは教会を破壊し、家庭や職場や地域社会を破壊します。非常に効果的ですから、サタンはよくこの手を使います。 この話を読みましょう

3.間違ったプライドを捨てよう

セルフチェックしてみよう

さて、私たちはどうでしょうか。

教会の中で、あるいは他の組織の中で、私たちが他の個人やグループを非難したり、批判したりしたくなったとき、静かに自分自身の動機をチェックしてみましょう。どこかにプライドを満足させたいという傲慢な気持ちが混じっていなかったかどうか。

正しい道から逸れている他の人について見て見ぬふりをしろとか、社会的な矛盾に目をつぶれとかいうことではありません。ただ、いつも動機をチェックする必要があります。何を語っているかだけではなく、どうしてそう語るのかということです。

もし動機の中に傲慢さが忍び込んでいることを発見したなら、速やかに悔い改めましょう。そして、純粋に相手や社会のことを愛することができるよう、聖霊さまに助けを祈り求めましょう。その上で、語るべきことを語り、責めるべきことを責め、指導すべきことを指導するようにしましょう。

本当のプライドを手に入れよう

ただ、変なプライド、傲慢さを捨てるためには、本当のプライドを手に入れる必要があります。

人は、プライド(自尊心)がなければ生きていけません。自尊心があるとは、「私はここにいてもいい。それだけの価値ある存在だ」ということです「ここ」とは、教会かも知れないし、家庭かも知れないし、学校や職場や地域社会かも知れないし、この世かも知れません。自尊心がないということは、「私は生きる価値のない、いない方がましの、ゴミのような存在だ」と信じているということです。100%そんなふうに信じて生きていられる人などいません。どんなに自信の無い人でも、どこかで「でも、私はここにいていいはずだ」と思っているのです。

では、私たちのプライド、誇りはどこにあるのでしょうか。私たちは神さまによって選ばれ、愛され、祝福されています。だから、堂々と生きていていいし、ここにいていい。これが私たちの誇りです。

ただし、それは私たちが何かすばらしいことを行ったり持っていたりするからではありません。神さまの一方的な恵みの故です。イエスさまの一方的な犠牲の故です。そして、聖霊さま一方的なお助けの故です。

傲慢さに気づき、それを捨て去って謙遜に愛することができるのもまた、神である聖霊さまの助けなしにはできないことです。

そこが揺らぐと、私たちは人と比較したり、人に認めてもらったりして、自分の存在価値を証明したくなります。分派分裂はそこから生まれます。

いつもそのことを意識し、神さまに感謝し、神さまに頼ることが、傲慢さから離れ、教会その他の組織の中に、愚かな分派分裂を生み出さない道です。

まとめ

自分を優れた存在だと証明しようとするのはやめて、謙遜に人々に接しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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