御霊と御力の現れ

トップページ聖書のメッセージ集2014年 > このページ


コリント人への第一の手紙2章1〜11節

(2014.2.9)

参考資料

「御霊」(4節など)は聖霊のこと。聖霊は、三位一体の神の第三位格です。人は聖霊の導きによって、初めて罪を自覚し、悔い改め、信じて救われることができます。

「御力」(4節)は、福音を実証するような様々な出来事が、身の回りに起こることを指しています。いわゆる奇跡だけでなく、祈りが聞かれるとか、生活が一変するとか、不思議な平安に満たされるとか。

聖書からのメッセージ

イントロ

コリント教会にあった分派分裂の背後には、自分たちの哲学的な知恵を誇る間違ったプライドがありました。パウロは、彼らの間違ったプライドを打ち砕くために、福音が人の知恵ではなく神の知恵に基づくことをさらに指摘します。そして、そのことを自分自身のコリントでの宣教スタイルを示すことで、実証しようとしました。

私たちもまた、いつの間にか間違ったプライドに支配され、イエスさまが喜ばれない言動をしてしまうことがあります。今回の箇所を通して語られるイエスさまの訴えかけを聞いて、そこから解放されましょう。

1.パウロの宣教スタイル

福音は愚かに聞こえる

1:23には「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが」と書かれています。

ユダヤ人にとってつまずきだというのは、こういうことです。彼らは旧約聖書の預言を信じていましたから、救い主が世界の王として君臨し、異邦人さえも支配なさる方だと信じていました。

ところが、救い主ではないかと期待されていたイエスさまは、ローマ人の手にかかって死刑になってしまいました。しかも、殺されて木につるされるというのは、ユダヤ人にとっては神さまの呪いを表していました(申命記21:23)。多くのユダヤ人にとって、イエスさまが十字架にかかって死んだということは、彼が世界の王、神から遣わされた救い主ではあり得ないという証拠に思えました。

異邦人にとっては愚かというのはこういうことです。異邦人の代表格であるギリシャ人は、哲学を尊重しました。ギリシャ哲学の特徴は霊肉二元論です。霊魂は良いものであり、肉体をはじめとする物質は悪であるという考えです。そして、彼らにとっての救いとは、悪である肉体に閉じ込められ、苦しんでいる霊魂が肉体の束縛から解放されることです。

彼らにとって、もしもイエスさまが神であれば、悪である肉体をまとって人間として生まれるなどあり得ないし、まして十字架で死ぬことなんかあり得ません。さらに、せっかく死んで解放されたのに、再び肉体をまとって復活するなんてあり得ないことだと感じました。

ですから、後にパウロがギリシャのアテネで伝道したとき、最初は興味を持ってパウロの話を聞いていたギリシャ人たちでしたが、復活の話になった途端、興味を失ったりあざ笑ったりしました(使徒17:32)。ギリシャ人にとっても、イエスさまが十字架にかかって死んだというのは、かえって信じるに値しないメッセージだったのです。

十字架のメッセージを語った

コリントはギリシャの町です。パウロがコリントを訪れたのは、十字架や復活のメッセージをあざ笑われたアテネ伝道の直後です。にもかかわらず、パウロはギリシャ人が好むような伝道方法を採用せず、「あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(2節)と述べています。哲学的な説明によって人を説得するのではなく、十字架を中心とした福音を宣べ伝え、福音を信じるだけで救われるというメッセージを語ることで伝道しようとしたということです。

ちなみに、私たちが救われるために信じるべきメッセージ、福音とは、「イエス・キリストが私たちの罪が赦されるために十字架にかかって死なれたこと、そして三日目に復活して今も生きておられること」です(第1コリント15:1-8参照)。

自分の弱さを隠さなかった

また、パウロは自分の弱さを隠しませんでした。自分をことさらにきよく、賢く、偉大な人物に見せ、それで人々を引きつけて弟子を増やそうとしなかったということです。むしろ、自分自身の失敗とか弱点とかを、堂々と語っていたのでしょう。

一部の人たちは、それでパウロのことを指導者として軽く見るようになりました。

しかし、パウロはそんなことは意に介しませんでした。聖書の神さまが恵みの神、愛の神、赦しの神であることを示し、またどんな人にも救いの可能性があるということを示すためには、自分の弱さを隠さずにさらけ出すことが、もっとも効果的だと信じていたからです。

2.日本人にとっては?

無責任に思える

さて、日本人にとって、十字架のメッセージはどのように聞こえるでしょうか。

東京の教会にいた頃、牧師からこんな話を聞きました。教会を開拓してまもなくの頃、伝道集会に一人のご婦人が出席なさいました。そして、福音のメッセージを聞いて憤慨しながら帰って行ったそうです。曰く、「自分の罪を他人になすりつけるなんて、クリスチャンの考えはとんでもない!」と。

日本人は基本的にまじめです。自分が犯した罪の責任を、自分で負わないで他人であるイエスさまに追わせるという考え方に、違和感を持つのは分かります。ただ、問題は「罪」の重さに対する認識の甘さです。私たちの罪は、自分で負うにはあまりにも重すぎます。

罪に対する責任を負うということは、決して赦されることのない永遠の滅びに落とされるということです(ローマ6:23)。だから、イエスさまの十字架の身代わりによって、一方的に赦していただくしかなかったのです。

願望が叶わないなら意味が無いと思える

また、日本には「困ったときの神頼み」という言葉があります。この受験シーズン、あちこちの神社は受験生やその保護者で大盛況です。様々な神社仏閣が、ここは縁結びの御利益がありますよ、商売繁盛の御利益がありますよ、ぼけ封じの御利益がありますよ……と、様々な「効能」をうたっています。

それは、「消費者」がそれを宗教に求めているからでしょう。日本人にとって宗教とは、自分の願望が叶うための道具のようです。だから、結婚式は教会で挙げ、子どもが生まれたら神社で祈ってもらい、死んだらお寺にお願いするというチャンポンでも、全く違和感を感じないのでしょう。

私は高校時代に地域の祭りについてアンケート調査をしたことがありますが、自分たちがお祭りをしている神社に誰がまつられているかを知っている人は、ほとんどいませんでした。しかし、みんなそれを問題だとは思っていません。お店に行って、その店の店長の名前を知らなくても、自分が欲しい商品を売ってもらえさえすれば問題ないように、とにかく祈って自分の願望が叶いさえすればいいのだから。

そんな日本人にとって、私たちの願望よりも神さまのみこころの方が優先されるキリスト教の教えは、なんだか物足りないような気がしてしまうかも知れません。

神の偉大さが理解できていない

これら二つのつまずきは、実は同じところから来ているように思えます。それは、私たち日本人には、神さまの偉大さが分かっていないということです。

日本には多くの神々があり、また自然現象とか火とかトイレとかにも神々が存在していると信じられています。ですから、神というものの偉大さが相対的に低く見積もられています。そういうわけで、聖書の神さまも、(意識していないけれど)そんなに偉大な方だとは思えない。

そこで、神さまを否定したり、神さまに逆らったりする罪が、どれほどひどいことであり、自分では償うことが不可能なほどに重い責任を負わされるということが、感覚的に理解できません。

また、神さまのことを私たちの願望を叶える御用聞きのようにとらえてしまって、私たちの方が神さまのみこころに従わなければならないしもべなのだということが、これまた理解できない。

ですから、「十字架のことば」は、多くの日本人にとっても愚かなのです。

3.聖霊のお働きに期待しよう

聖霊の助けなしには

聖書が教える救いのメッセージは、常識的にはとても受け入れられないような代物です。ですから、聖霊なる神さまの助けなしには、人は救われません。「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」(10節)。「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」(11節)。

まず祈ることから始めよう

そこで、家族なり友人なりの救いを願っているのなら、何をどのように語って説得しようかと考える前に、まず祈りから始めましょう。

聖霊さまが豊かに働いてくださって、その人に興味を与えてくださり、罪を自覚させてくださり、救いを求める飢え渇きを与えてくださり、そして福音を信じる信仰を与えてくださるようにと。

そして、そのためにあらゆるものを用いてくださるように祈り、この自分もあの人の救いのために何かをさせてくださいと祈りましょう。

証しをしよう

それから、パウロが自分の弱さを示すことによって救いについて語ったように、機会を見つけて、かつての自分がどのようにして救われたのかをその人に語りましょう。

教義についての難しい説明は、できる自信が無くてもかまいません。聖霊さまが働いてくださることを信じて、単純な福音を語りましょう。

まとめ

聖霊さまが、イエス・キリストの十字架による救いを、私やあなたを通して、この地上に広めてくださいますように。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2014 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.