御霊に属する人として生きる

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コリント人への第一の手紙2章12〜3章4節

(2014.2.16)

参考資料

肉(3:1)とは、特に聖霊と対比して用いられる場合には、「罪の奴隷となって、欲望の赴くままに生きようとする人間の性質」のことを指します。

乳(3:2)とは初歩的な教えのこと。一方、堅い食物とは、より高度な内容の教えのこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

パウロは、分派争いを繰り返すコリント教会の現状を自覚させるため、人間を3種類に分けて説明しています。

1.生まれながらの人間と御霊を受けている人

クリスチャンかどうか

パウロは、まず人間を大きく2つに分けています。それは「生まれながらの人間」(2:14。3:3の「ただの人」も同じ意味)と、「御霊を受けている人」(2:15)です。これは要するに、救われているか否か、すでにクリスチャンかまだクリスチャンになっていないかの違いです。

救われている人とは、すなわちクリスチャンとは、きよくて立派な人間のことではありません。知恵に満ちた人のことでもありません。何かの修行を積んだ人のことでも、聖書を全部読んだ人のことでも、教会に一定期間通った人のことでもありません。人は行ないによっては救われず、ただ、福音を信じることによってのみ救われます。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです」(第1コリント15:1-5)。


クリスチャンとは、この福音を信じた人のことです。その人は、神の聖霊をいただき、聖霊さまはその人の内に住んでくださるようになります。たとえば、使徒2:28にはこう約束されています。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」

一方、クリスチャンではない人、生まれながらの人間については、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ8:9)と書かれています。

ドライブのたとえ

ドライブにたとえて話しましょう。小学生が私の車を運転するとします。オートマですから、とりあえず動かすことはできるでしょうが、何しろ無免許。あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、とても快適なドライブとはいきません。この状態が「生まれながらの人間(ただの人)」です。欲望の赴くままに生きようとしたり、他の人と争ったり、突然の出来事に揺れ動いたりします。

そこにプロのドライバーであるイエスさまが乗り込んでくださいました。そうすると、今までの惨状が嘘のよう。快適なドライブが始まりました。これが「御霊を受けている人」です。罪の思いをコントロールして乗り越え、神さまが喜ばれるきよい生き方を目指し、人が何と言おうと、どんな状況に遭遇しようと、どんと構えて自信に満ちあふれて過ごすことができます。

救いが取り消されることはない

そして、私たちに与えられた救いは永遠に保証されています。私たちは弱くて不完全ですから、クリスチャンになった後も失敗をしたり、罪を犯したりするでしょう。しかし、だからといって、いったんいただいた救いが取り消しになることはありません。

「この方(註:キリストのこと)にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」(エペソ1:13-14)。

2.御霊に属する人と肉に属する人

いずれもクリスチャン

パウロは、さらに「御霊を受けた人」を2種類に分類しています。「御霊に属する人」と「肉に属する人(キリストにある幼子)」です。どちらもクリスチャンで、永遠の救いをいただいています。

両者の違いは、心がどちらの方向を向いているか、何に支配されて生きることを望んでいるかということです。神の聖霊かそれとも肉(生まれながらの自己中心的な性質)か、です。

せっかくプロのドライバーを車の中に迎え入れても、運転席には座らせないで、助手席や後部座席に座らせていたらどうでしょう。ハンドルを握っているのは素人ですから、やっぱりあちこちぶつけてしまいます。これが「肉に属する人」です。クリスチャンなのに、自分の人生を自力・我力、自分の判断だけで生き抜こうとしているのです。

コリント教会にあった分派分裂の原因は、間違ったプライドだと学びましたね。神さまは、私たちのことを神さまの子どもにしてくださり、「すばらしい存在、大切な存在」と呼んでくださっています。しかし、肉に属する人は、生まれながらの人と同じように、神さまの語りかけを聞きたくありません。

そんなわけで、コリント教会の人たちは確かに救われていましたが、神さま以外の所に自信の土台を見つけようとしました。すなわち、「自分」がどれだけ優れているかを証明することによって自信を保とうとして、分派を作り、他のグループの人を馬鹿にしたり批判したりして争ったわけです。

乳と堅い食べ物

パウロは、コリント教会の人たちに向かって、「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです」(3:2)と語りました。

乳とは救いに関する初歩的な教えのことです。私たちが、罪人であるにもかかわらず、神さまに愛されていること。神さまが私たちの罪を赦そうとしてくださったこと。そのために、イエス・キリストが十字架にかかって身代わりに死んでくださったこと。イエスさまは復活して今も生きておられ、私たちの祝福のために取りなしをしてくださっていることなどです。

パウロは、乳のような初歩の教えが悪いと言っているわけではありません。スポーツでも何でも、基本をおろそかにしては、より高度な技術を身につけることはできませんね。救いも同じです。私たちがイエスさまに命がけで愛され、赦され、祝福されているのだということから外れてしまうと、どんなに聖書的な教えであっても重荷になってしまいます。

一方、堅い食物とは、より高度な内容の教えのことを指しますが、特にクリスチャンが従うべき様々な生き方に関する教えのことです。その教えに従うには犠牲が伴うことがあるため、堅いと言われているのです。コリント教会の人たちは、神さまにつながり、神さまに従うことよりも、自分のプライドを満足させることの方を求めました。そのように自分の祝福のことだけ考える自己中心的なところにとどまっている限り、堅い食べ物を味わうのは無理なのです。

私たちは、イエスさまに大いに愛されています。その喜びと感謝から始まって、だからたとえ犠牲が伴ってもイエスさまの喜ばれる生き方をしようというところに成長していかなければなりません。

聖霊を悲しませないように

たとえクリスチャンが自己中心的な生き方をしても、罪を犯しても、それで救いが取り消しになって、聖霊さまが離れるようなことは決してありません。しかし、罪を犯せば「聖霊を消す」(第1テサロニケ5:19)とか、「聖霊を悲しませる」(エペソ4:30)とかいうことが起こります。

そうなると、聖霊さまがくださる様々な祝福、たとえば人格的な成長や、喜びや感動や平安に満ちた人生などの祝福も、十分味わえなくなってしまうことでしょう。

ですから、罪を犯したなら、あるいは神さまに従うことよりも自分の欲望を優先させていたなということに気づいたなら、すぐに神さまに告白し、悔い改めましょう。すると、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。

そして、神さまに従う生き方を再開しましょう。

まとめ

あなたは今回学んだ3種類の人のうち、どのタイプですか? まだクリスチャンでない方。ぜひこの機会に神さまを心にお迎えください。「イエスさまのおかげで救われたことを信じます」という祈り一つで、あなたはクリスチャンです。

そして、すでにクリスチャンだけれど、そういえば人生のハンドルをイエスさまに預け切っていなかった、未だに自力・我力で生きようとしていた、神さまに従うことよりも自分の欲望に従うことを優先していたという方(ああ、私もそうです)。そのことに気づかされるたびごとに、悔い改めて、ハンドルを預けていきましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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