真価が試される時

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コリント人への第一の手紙3章10〜15節

(2014.3.2)

参考資料

「その日」(13節)とは、世の終わりの時を指す言葉です。特に、イエス・キリストの再臨の時を指しています。マタイ7:22、24:19、24:39、第1テサロニケ5:4、第2ペテロ3:10など。

聖書からのメッセージ

イントロ

パウロは、今回の箇所で、教会を建て上げる働きを建物を造るプロセスにたとえています。

教会を生み出し、成長させる働きを担っているのは、パウロやアポロのような、牧師や伝道者です。しかし、すべてのクリスチャンが教会の一員なのですから、教会を形成し、教会を成長させる責任は伝道者や牧師だけが担うものではありません。一人一人がこの地上でどのような生き方をするかを考え、実践しなければなりません。

パウロは、今回の箇所を通して、救われた私たちに与えられている責任について教えています。

1.キリストという土台

キリスト以外の土台を据えない

まずパウロは、教会の土台はイエス・キリストだと語りました(11節)。教会は、建物のことではなく(それは教会堂、あるいは集会所です)、イエス・キリストを信じる者たちの集まり、共同体です。

ですから、教会はイエス・キリストを信じる信仰を中心として集まり、活動をしなければなりません。当たり前のことを言っているようですが、キリスト教会を名乗りながら、実態は世の中の同好会や政治団体やNPO法人と変わりが無いという団体もあります。

福音を語らない教会

以前、クリスチャン・ロックバンドのコーラスをやっていたとき、とある教会の「伝道集会」に呼ばれました。私たちが何曲か賛美した後、その教会の牧師が立ち、アフガニスタンの状況を訴え、難民支援のための募金を訴えました。伝道集会と銘打つからには、クリスチャンではない人たちが対象でしょう。その人たちに対して、福音、すなわちイエス・キリストの十字架も、復活も、罪からの救いについても一切語らず、募金をして集会が終了。私たちは一種のカルチャーショックを受けました。

もちろん、難民支援は、教会の素晴らしい働きの一つです。教会が、社会の様々な傷を見つけていやすことは、存在目的の一つです。ですが、クリスチャンでない人たちに、いきなり募金を求めるのは順番が違うのではないかと。

私たちの土台は何か

なぜ教会が社会の傷をいやそうとするのか。それは、イエスさまによって救われ、愛され、祝福されているという喜びからです。この自分をこんなにも愛してくださったお方が、社会の中で傷つき苦しんでいる人をご覧になって悲しんでおられる。だから私たちが立ち上がるのです。

「愛されるために愛する」のではなく「愛された故に愛する」という順番が大事です。どんな人も神さまに命がけで愛されていることを、私たちは宣べ伝えなければなりません。

世の中の不正を正したり、慈善事業を行なったりすることは素晴らしいことですが、教会が単なる政治団体やNPOになってはいけません。仲がいいことは素晴らしいことですが、教会が単に気の合う仲間同士の同好会のようになってはいけません。

ましてや、すでに学んできたように、クリスチャンであることや教会のメンバーであることによって、自分のプライドを満足させることが目的となってしまってはなりません。私たちキリスト教会の土台はイエスさまです。イエスさまが恵みによって私たちを救ってくださったということを信じ、感謝し、「このお方に従って生きていこう、このお方の栄光を現すことを目的に生きていこう」と決意し続けていくことが大切です。

今の私やあなたの人生の土台は、いったい何だったでしょうか。

2.働きの真価が試される

働きの真価

次にパウロは、キリストという土台の上にどのような建物を建てるのかという話をします。

伝道者や牧会者は、教会を生み出し、成長させることがその任務です。その働きの真価は、その日、すなわち世の終わりの時に明らかになります。単に教会が大きくなることが評価の対象ではありません。問題にされているのは、「金、銀、宝石、木、草、わら」(12節)など、その信仰や実践の質です。

救われた者として、いつも神さまのみこころを知ろうと努力し、それを実践しようと励むような生き方が、金、銀、宝石で建てられた建物です。

一方、救われてはいるけれど、ほとんど神さまのことなど意識せず、自分の好きなことを、好きなときに、好きなように行なうような生き方が、木、草、わらで建てられた建物です。あるいは、表向きは敬虔に見えるけれど、実際には自分の利益とか名声とかを目的にした働きもまた、神さまの目には木や草やわらの建物でしょう。

私たちの生き方は、いったい神さまの目に、どのように映っているでしょうか。

救いの保証

ただし、私たちが決して忘れてはならないことは、私たちクリスチャンに与えられている救いは、確実に保証されていることです。イエス・キリストを信じるならば、その人がその後どんな生き方をしようとも、地獄に落とされて滅ぼされることはありません(15節)。イエス・キリストの十字架によってもたらされた救いは、人間の力によって取り消しにすることはできません。どんなことがあっても、神さまの愛が取り去られることはありません。キリストの救いは、それほどまでに決定的なのです。

だからこそ、私たちは一切を神さまにお任せして、どんな状況の中でも安心して暮らすことができます。

報いの違い

では、どうせ救われるのだからといって、まるで無神論者と同じように罪深い生活を続けたり、人を平気で傷つけるようなことを繰り返したりしてもいいのでしょうか。もちろん、答えはNOです。

地上でどんな生き方をしたかによって、再臨後に神の国に入る資格が無くなることはありません。それだけでも大変な祝福なのですが、その神の国において味わうことができる、プラスアルファ(ボーナス)の祝福の度合いが変わります。

イエスさまは、「天に宝を積みなさい」とおっしゃいました(マタイ6:19-20)。人から認められたり、ほめられたりすることを求めて何かをするのはやめなさい。たとえ誰も見ていなくても、誰もほめてくれなくても、誰も理解してくれなくても、神さまは見ていてくださるのだから、神さまの喜ばれる正しいことを行ないなさいということです。

あなたの人知れず苦労して行なっているその努力は、必ず神さまによって報われます。ですから、続けていきましょう。

まとめ

神さまの愛に感謝しながら、神さまの栄光を現し、神さまのみこころに従う生き方を目指しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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