先走った判定

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コリント人への第一の手紙4章1〜21節

(2014.3.16)

参考資料

1節の「奥義」とは、神さまが以前ははっきり語っておられなかったけれど、ある時代以降に明らかになさった真理のこと(エペソ3:5)。「神の奥義の管理者」は、ここでは使徒と同じ意味。

17節「テモテ」はパウロの弟子の1人で、エペソ教会でパウロと共に奉仕していましたが、手紙に先立ってコリントに向かいました。しかし、途中でおそらくマケドニアの諸教会(ピリピ、テサロニケなど)に立ち寄るのでしょう。手紙の方が先にコリントに到着します。

聖書からのメッセージ

イントロ

コリント教会内に起こった分派により、パウロはアポロやペテロと比較され、一部の人たちから軽蔑されていました。にもかかわらず、パウロは怒らず、コリント教会の人たちをまるで我が子のように心配し、愛しました(14-15節)。

最後の脅しにも似た言葉は、自分が軽く扱われていることに対する怒りから出た言葉ではなく、高慢によって教会を分裂させたり、5章以降に出てくるような不品行、礼拝の混乱、差別などを引き起こす人たちがいるばかりか、それらの問題を教会が放置していることに対するものです。

なぜパウロは比較されたり軽蔑されたりしても、それに振り回されることがなかったのでしょうか。

1.神による判定を優先していた

管理者の責務とその評価

パウロは、自分がキリストのしもべであり、神の奥義の管理者として召されているという確信がありました(1節)。そして、奥義の管理者に求められていることは、忠実であることです(2節)。これこそ、キリストのしもべ、神の奥義の管理者としての評価基準です。

しかも、パウロは、その評価基準を満たしているかどうかを判定するのは、人間ではなく神さまであると語っています。そして、パウロ自身も人間だから、自分で自分のことを評価することさえしないと(3-4節)。

先走った評価をしない

人間の価値を決められるのは神さまだけですから、コリント教会の人たちも、また中通りコミュニティ・チャーチの人たちも、それ以外の人たちも、自分や他の人の価値についてあれこれと評価することは控えなければなりません。

人の評価は気にしない

パウロは、自分の彼らに対する愛が十分伝わっていないことに関しては、確かに悲しくはあったでしょう。しかし、人間であるコリント教会の人たちが自分に下すさばき、すなわち評価は、意味の無いことだと知っていたので、それに振り回されませんでした。

むしろ、神さまは人に認められないような隠れた行ないを見てくださり、この世の終わりの時にちゃんと評価してくださいます。ですからパウロは、コリント教会の人たちが何を言おうとも、揺るがされなかったのです。

神さまはあなたのことをどのように評価しておられますか? 聖書は何と教えているでしょうか。6節の「書かれていることを越えない」とは、聖書に基づいて判断することの大切さを教えています。人やあなた自身の判断だけでなく、聖書が何を教えているかに、いつも立ち返りましょう。 この話をお読みください

2.なすべきことに集中していた

時間とエネルギーの振り分け先

パウロは、自分に与えられている貴重な時間やエネルギーを、自分の価値を守り証明するために使おうとしませんでした。それは神さまが評価してくださることです。そして、神さまに任せておけば間違いがありません。

代わりに、彼は時間とエネルギーを、自分が今しなければならないことを行なうことに振り分けました。パウロたちは、人々を救いに導き、救われた人たちがイエスさまを目標として成長していくことを助けることが、自分たちの使命だと知っていました。そこに自分の思いを集中させたのです。

別の言葉で言うと、他人の評価を気にして一喜一憂する暇が無かったとも言えるでしょう。これが、パウロが人の評価に振り回されなかった2つめの理由です。

傲慢と謙遜の対比

6節から13節は、コリント教会の人々の傲慢な生き方と、パウロなど使徒たちの、人々のためにしもべのように仕える生き方との対比です。

すでに見てきたように、分派分裂の背後には傲慢さが隠れています。自分たちと他の人たちを比較して、自分たちの方が優れていることを証明したいという思いが、分派を生み出すからです。

パウロは自分のような生き方をして欲しいと、コリント教会の人たちに願っています(16節)。

人の評価を気にして、自分を優れた者に見せようとしたり、評価が低いことを気に病んだりする代わりに、神さまが自分に何をせよと語っておられるのか、それを知って実践しようと。

3.コリントの人たちを愛していた

子どもとしてさとす

パウロは、コリント教会の一部の人たちからひどい評価を受け、傷つけられていました。しかし、怒りを持ってそれに対抗しませんでした。それは、彼らの所行にもかかわらず、彼らのことをまるで子どものように大切に思っていたからです。

コリント教会は、パウロの伝道によって誕生しました。ですから、パウロにとって、彼らは霊の子どもたちなのです。これが15節の言葉の意味です。

彼らを子どものように大切に思っているから、ときに厳しいことも語ります。しかし、自分が馬鹿にされたといって、その復讐のために怒るような真似はしませんでした。

愛を増し加えてください

誰かがあなたのことを、理不尽にも低く評価したり、馬鹿にしたり、悪口を言ったり、いじめたりするかも知れません。あなたは、イエスさまが命がけで愛し、聖霊なる神さまが住まいとしてくださるほどに大切な存在です。ですから、泣き寝入りしないで抗議してかまいませんし、場合によってはその人との交流を絶って、自分の身と心を守ることも必要です。

しかし、少なくともその人を愛する力を神さまがくださるようにと、神さまに祈ってみましょう。同じように抗議したり、交流を絶ったりするにしても、恨み辛みにまみれてそうするのと、愛に基づいてそうするのとでは全く違います。

神さまが私たちを赦し、愛してくださっているように、私たちもまた、ひどいことを言ったり行なったりする人を赦し、愛することができますように。

まとめ

パウロのように、人の評価に振り回されない生き方を目指しましょう。

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