種を取り除いたパン

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コリント人への第一の手紙5章1〜13節

(2014.3.23)

参考資料

5節「彼の肉が滅ぼされるため」は、罪を犯し続けた結果、サタンによる攻撃が激しくなり、病気になったり死んだりすることです(11:30、使徒5:5参照)。

6節の「パン種」は、前の日に発酵した粉の一部を保存しておいたものです。次の日のパンをこねる際、新しい小麦粉にパン種を混ぜておくと、粉全体が発酵して膨らみます。そこで、ユダヤの教師は、パン種を「一部の人の悪影響がグループ全体に及ぶ」ことのたとえに用いました。

7-8節は、種を入れないパンを用いる、ユダヤの過越の祭りがモチーフになっています。イエスさまは、完全な過越の小羊として、全人類の身代わりの犠牲となって亡くなりました。

イエスさまは、罪を犯した人への対応の順番を教えてくださいました(マタイ18:15-17)。

この章の指導の結末は、第2の手紙の2章と7章かもしれません。その場合、
  1. 第1の手紙にもかかわらず、状況は変わりませんでした。
  2. そこで、パウロはコリントを訪問しましたが、教会はパウロの指導を受け入れず、お互いにいやな思いをしただけでした。
  3. その後、パウロは涙ながらに、しかし内容的には非常に厳しい手紙を書き(現存していません)、罪を悔い改めない人を除名するよう訴えました。これに教会は応答し、悔い改めない人を除名しました。
  4. 除名された人は自分の罪を認め、悔い改めました。そこでパウロは、彼を再び教会に迎え入れるよう、第2の手紙で勧めました。

聖書からのメッセージ

イントロ

5章で取り上げるのは、コリント教会の中にあった不品行、すなわち性的な乱れに関する問題です。今回は、不品行の問題だけでなく、クリスチャンと罪の問題全体について学びましょう。

1.パウロの訴えの内容

コリント教会の問題

元々コリントは性的に堕落した町であって、「コリント人のように振る舞う」とは「不品行に陥る」ことを意味する言葉でした。しかし、その一般のコリント人もびっくりするようなスキャンダルが教会の中に起こり、それが教会の外にも聞こえていました。そして、彼はそれを悔い改めようとしなかったのです。

1節を見ると、「父の妻を妻にしている者がいる」と書かれています。母ではなく父の妻と書かれていますから、自分を産んだ母親ではなく、継母のことでしょう。それでも、クリスチャンではないコリント人でもしないようなひどい行ないでした。

パウロが問題にしたのは、不品行そのものよりも、そういう人が教会の中にいるのに、教会がその人に対して何もしなかったという点です。「そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです」(2節)

パウロの判断

3-5節では、不品行を行ない、悔い改めないあの人に対して、パウロは自分ならどのように対応するかということを語っています。5節の「サタンに引き渡す」とは、教会の交わりから除名することを意味します。

ただ、パウロ自身はコリントにはいません。実際の対応はコリント教会の人々がしなければなりません。そこで、パウロは、コリント教会も自分と同じ判断をし、罪を悔い改めようとしない人に対して厳しく対処するよう求めています。それは教会の人たちにとっても悲しいことであり、苦しいことです。それでも除名処分を断行するようにと。

処分の目的

パウロが除名という厳しい処分を求めたのは、罪を犯した人を地獄に落とすためではありませんでした。5節の後半には、その人を除名してサタンの手に渡す目的が2つ書かれています。

一つは、「彼の肉が滅ぼされるため」です。教会の交わりを失うと、サタンの攻撃からの守りが手薄になり、その結果として病気になったり死んだりするかもしれません。たとえそこまでいかなくても、温かい信仰の交わりを断ち切られることは、クリスチャンにとって悲しいことであり、寂しいことです。

しかし、ひどい罰が下ることそのものが処分の目的ではありません。メインの目的は「それによって彼の霊が主の日に救われるため」です。ひどい目に遭うことで、自分が間違ったことをしていたということを認め、悔い改めに導かれることをパウロは期待しています。

イエスさまも、罪を犯してた人に対する対応の仕方を教えてくださっています。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(マタイ18:15-17)

これによれば、「陰口をたたく」とか「噂話の種にする」というような対応はなしということですね。また「見て見ぬふりをする」というのもなしです。

そして、除名は最終手段だと分かります。まずはその人が悔い改めるよう、説得し続けなければなりません。イエスさまの願いは、罪を犯した人を滅ぼすことではなく、その人が罪を悔い改めて神さまと共に生きることです。

コリント人への第2の手紙の2章や7章を見ると、どうやらその人は悔い改めに導かれたようです。そこでパウロは、第2の手紙では、彼を赦して再び教会の交わりに呼び戻しなさいと勧めています。罰を与えることが目的なのではなく、悔い改めに導くことが目的だからです。教会やクリスチャンの行為は、どんな場合でも愛が原動力でなければなりません。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(13:1-3)

どんなときも、たとえ人の間違いや不正を指摘しなければならないときでも、やかましいどらやうるさいシンバルではなく、愛の器として他の人と接することができたらいいですね。

2.きよさを追い求めよう

みんな赦された罪人だと自覚しよう

私たちが忘れてはならないことは、イエスさま以外に「自分には罪がない」と主張できる人間は、堕落前のアダムとエバしかいない、すなわち今の地上には誰もいないということです。

そして、私たちは自分のきよさ、正しさ、立派さのおかげではなく、イエスさまの犠牲のおかげで罪を赦され、神さまの子どもとされました。私たちは赦された罪人であって、誰も自分のきよさや正しさを誇ることができないのです。

ですから、コリント教会の人たちがやっていたように、自分が優れた人間だということを証明するために、他の人の罪を指摘したり、責めたり、馬鹿にしたりしないようにしなければなりません。

私たちは皆、罪や悪魔との戦いに参加している戦友です。味方同士で足を引っ張り合っていたら、勝てる戦いも勝てません。

きよめられたのだからきよさを追い求めよう

一方で、どうせ赦されているのだから、何をやってもいいということにはなりません。神さまに逆らったり、神さまの喜ばれないことをしたりするのは、私たちの代わりにイエスさまが死んでお詫びしなければならなかったほどに、とんでもないことだからです。

コリント教会の人たちは、自分たちが賢くあることに関しては一生懸命でしたが、きよくあることについては無頓着でした。パウロは、その点を問題にしています。

マタイ18:15-17の、罪を犯した人への対処についてのイエスさまの教えですが、その前の話は、99匹を野に残しても、失われた1匹の羊を探しに行く羊飼いの話が出てきます。イエスさまはこの2つを一連の話として語られました。

神さまは、たった一人の罪人も滅びることを望んでおられない。その人が悔い改めて救われるためだったら、どんな犠牲もいとわない。それほどに神さまの愛は一人一人を深く愛しておられるのだと。そうです。神さまは、全世界に罪人があなた一人だけだったとしても、あなたのためにイエスさまを送ってくださったでしょう。それだけ、あなたは父なる神さまに愛されており、イエスさまに愛されているのです。

イエスさまが自分のために犠牲になってくださったことを知り、それを感謝しながら、なおも積極的にイエスさまに逆らおうとすることは、できないことです。私たちがイエスさまに感謝し、神さまを父として愛しているなら、実際にできるできないは別として、少なくとも可能な限りきよくあることを求めるはずです。

愛されている者として生きよう

私たちはどれだけイエスさまの愛に感動、感謝しているでしょうか。そして、どれほど真剣に神さまのみこころを知り、それに従った生き方をしようとしているでしょうか。

ヘブル12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」。天国に行ったときに、そんなことをヘブル人への手紙の著者に言われたくないですね。

聖霊さまは、私たちがきよい生き方ができるよう、力を貸してくださいます。それは神さまの仕事(責任)です。私たちは自分の決心や努力だけでは、きよい生き方をすることはできません。できるのであれば、、イエスさまが身代わりに死ぬ必要もないし、聖霊さまが心に住む必要もないでしょう。

しかし、私たちがそれを許可しなければ、聖霊さまは無理矢理私たちを造り変えようとはなさいません。ですから、自分はできる限りきよく正しく生きていこうと、いつも心に決心し続けていきましょう。それが私たちの仕事(責任)です。

まとめ

神さまへの愛をいつも確認しながら、血を流すほどの覚悟で、神さまの喜ばれる生き方を目指しましょう。

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