より高い生き方

トップページ聖書のメッセージ集2014年 > このページ


コリント人への第一の手紙6章1〜11節

(2014.3.30)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

この箇所では、クリスチャンが他のクリスチャンを訴えているという問題について触れています。ここから、私たちの幸福について考えてみましょう。

1.コリント教会内の訴訟問題

クリスチャン同士の訴訟

コリント教会では、クリスチャンが他のクリスチャンと争いになり、裁判を起こすという問題が起こっていました。

8節に「不正を行う、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです」と書かれていますから、詐欺的な方法で金銭をだまし取った、取られたというようないざこざがあったのでしょう。あるいは、代金の未払いなどの商売上の契約違反があったのかもしれません。

教会が無力であること

パウロが問題にしているのは、教会員同士でこのような問題を起こしたというのに、前回学んだ不品行の問題と同じように、教会がただ手をこまねいているだけで、何もしようとしなかったという点です。

教会のクリスチャンは、世の終わりの「千年王国」の時代に、イエス・キリストと共に世界を統治します。

「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(黙示録20:4-6
)。

それなのに、教会内の小さな問題でさえも仲裁できないのかとパウロは叱責しています(2節)。あんなに自分たちの知恵を誇っているコリント教会の人たちなのに、そんな知恵さえ無いのかと、ちょっぴり皮肉も交じえて(5節)。

クリスチャンに求められる倫理

もちろん、パウロは不正を行なうことを厳しく戒めています。7節の言葉は、パウロが人をだまして損害を与えることそのものを大目に見ているという意味ではありません。

9-10節では、偶像礼拝や不品行、同性愛の罪に加えて、「盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」と書かれています。経済的に貪欲になり、他人の権利を侵害することは、神を悲しませる罪であり、絶対に避けなければならないことです。

7節の意味は、クリスチャンに求められているのは、損害を与える人を赦し愛するという、より高潔な生き方だということです。それほど高い倫理基準を与えられているのに、まるで不信者のように貪欲になり、人をだまして損害を与え、盗みや略奪の罪を犯すとは何事かと8節で叱責しているのです。

パウロは、教会の兄弟同士が訴え合うという行為の背後に、コリント教会の人たちの貪欲さがあることを見抜いています。そして、それを手放すように勧めています。私たちの中で、教会員同士の訴訟に直面している人はあまりいないと思いますが、貪欲の問題はすべての人に関係します。

2.とらわれからの解放

自由な生き方

今回の箇所を読み、イエスさまの山上の説教を思い出しました。

「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:38-48)


イエスさまも、パウロと同じく、不正に目をつぶれと言っているわけではありません。また、やられてもただ我慢して泣き寝入りしなさいと教えておられるわけでもありません。

右の頬を打たれるのは単なる被害です。しかし、左もどうぞと差し出して打たれるのはその人の自由意思に基づきます。強いられて歩く1ミリオンに自由はありません。しかし、もう1ミリオン歩くのはその人の自由意思に基づきます。

こういう行為ができるためには、ましてや敵を赦し、赦すだけでなく愛するためには、復讐心や物欲から解放される必要があります。そして、それらのものから解放されることが、人としての自由であり、幸せなのだとイエスさまは教えてくださっています。

べき主義からの自由

クリスチャン作家の曾野綾子さんも、こんなことを書いておられます。
自分で選んだ生き方であれば身を粉にして働いてそれほど評価されなかったとしても、ストレスもたまりません。
上司が自分のことを正当に評価してくれない。部下が指示どおり動かず、注意をすると言い訳ばかりする。
仕事をしていると、こういうことは本当によくあります。しかし、それは誰が悪いのかというと、そう思うあなた自身が悪いのです。上司はいつも部下のことを愛情のこもった目で見てくれているはずだとか、部下は必ず上司の命令に従うべきだとか、誰がそんなことを決めたのでしょうか。
人間というのは約束を守らなかったり、裏切ったりするものなのです。自分は違うといい張る人もいるかもしれませんが、私はそう思っています。それは、自分のなかにもそういう心があることを知っているからです。だからこそ、聖書は人を赦せと説くのです。(プレジデントオンライン

他人に対して「人はこうあるべきだ」と思いすぎると、イライラします。自分に対して「自分はこうあるべきだ」と思いすぎると、憂うつになります。世の中や人生に対して「こうあるべきだ」と思いすぎると、むなしくなってしまいます。他人も自分も世界も決して思い通りにはならないからです。

行き過ぎた「べき主義」を手放すことが、平安に満ちた幸せな人生の秘訣です。

解放してください

そうはいっても、様々な欲望にしても、復讐心にしても、べき主義にしても、私たちはなかなか手放すことができませんね。私たち人間の力だけでは不可能なのかも知れません。

私たちが様々な者を握りしめて手放せないのは、どこかに不安があるからです。自分で何とかしなければ、これを手に入れなければ、こういう条件を満たさなければ、不幸になってしまうと、意識・無意識に恐れているからです。

そこで、マザー・テレサはこんな祈りを捧げました。
イエスよ、わたしを解放してください。
愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、
好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。
イエスよ、わたしを解放してください。

このような祈りを捧げるとき、聖霊なる神様の働きにより、私たちの内側には神さまへの信頼が生まれます。神さまが私たちのために心配してくださり、私たちを守り、導いてくださるという平安が生まれます。その時、今まで自分でしっかり握っていたものを手放すことができるようになっていくでしょう。

神さまの願いは、私たちがどんな状況に置かれても、その中で幸せを味わうことができるようになることです。

私たちも、様々なとらわれから解放され、本当の幸せ、本当の自由を手に入れることができるように祈りましょう。

まとめ

様々なとらわれから解放されると、私たちは自由になります。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2014 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.