有益なことをしよう

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コリント人への第一の手紙6章12〜20節

(2014.4.6)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

コリントの町は性的には非常に奔放で、たくさんの遊女がいました。教会員の中には、遊女と遊ぶ人たちもいたようです。日本も、性的には非常に堕落しています。そのような国にあって、クリスチャンとしてどのように性の問題を考えればいいのでしょう。また、性的な行動だけでなく、私たちの行動を決める基準はどこにあるのでしょうか。

1.支配されないこと

すべて許されている

12節でパウロは「すべてのことが私には許されたことです」と語っています。イエスさまが十字架にかかられる前までは、ユダヤ人はモーセの律法が定める通りの生き方をしなければなりませんでした。異邦人も、もし聖書の神さまを信じたいと思うなら、やはりユダヤ人のように割礼を受け、モーセの律法が定める通りの生き方をせねばなりませんでした。

しかし、イエスさまが十字架にかかられたとき、モーセの律法は効力を失いました。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4)。私たちのすべての罪は一方的に赦されています。そして、私たちは行ないによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われます。

パウロが「私にはすべてのことが許されています」と語っているのはそういう意味です。

何をしてもいいという意味ではない

しかし、私がこれまで犯したすべての罪は赦されており、これから死ぬまでに犯すであろう罪もすでに赦されていますが、だからといって私たちが何をしてもいいということではありません。

確かに赦されますが、だからといって盗んでいいわけではないし、殺していいわけではないし、詐欺を働いていいわけではないし、配偶者以外の人と性的な交わりを持っていいわけではありません。

「すべてが益になるわけではありません」とパウロは語りました。神さまは私たちを大切に思っておられます。ですから、私を一方的に赦し、神の子とし、救ってくださいました。同様に、他の人のことも神さまは大切に思ってくださっています。

ですから、私自身にとって本当に益でないような行為、また他の人にとって益でないような行為、逆に自分自身や他の人を傷つけるような行為は、神さまは悲しまれます。

支配されていないか

有益かどうか、かえって自分や他人を傷つけないかどうかの判断基準の一つは、パウロが語っているように、「私はどんなことにも支配されはしません」ということです。

たとえば、飲酒それ自体を聖書は必ずしも禁じていません(イエスさまも飲酒なさいました)。しかし、お酒がなければイライラする、お酒がなければ眠れない、お酒がなければじっとしていられないとすれば、それはお酒に支配されている状態です。

また、人を助け、親切にすること自体は素晴らしいことです。しかし、本当は相手が自分でがんばるのを黙って見守り、手を出してはいけないときに、あれこれと代わりにやってあげるのはかえって害毒です。しかし、それでも黙って見ていられず、ついつい手を出してしまうのだとすれば、やっぱりそれはアルコール依存症と同じような依存状態です。

それがあればうれしいけれど、なくても結構うまくやっていける。それをできればうれしいけれど、できなくてもそれなりに楽しく生活できる。そういう自由を神さまは私たちに味わわせたいと願っておられます。

私たちの中に、知らない間に依存的になっているものがないでしょうか。だとすれば、それがどんなに社会的に認められているものであったとしても、私たちは手放さなければなりません。

2.自分の体は神のものだと知ること

ふたりは一体となる

パウロは16節で「ふたりは一体となる」という言葉を引用しています。これは創世記2:24の引用です。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び会い、ふたりは一体となるのである」

エバはアダムの骨と肉から造られましたから、彼らは元々一つの体でした。男女が性的に一つになることは、夫婦が一つの体に戻ることです。ですから、聖書は結婚を神聖なものととらえています。そして、性的な交わりもまた、夫婦にのみ許された神聖な行為とされています。そこで、聖書は夫婦以外の性的な関係を不品行として禁じてきたのです。

この体はキリストのもの

さらにパウロは、15節で「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか」と語っています。12章でさらに詳しく語られますが、教会はキリストのからだであり、そこに属するクリスチャン一人一人は、手や足や目や耳や内臓などの各器官です(12:27)。

また、19節にも「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではない」と書かれています。

自分の体だと思えば、それをどう使おうと私たちの勝手ということになります。しかし、私たちの体は、もう自分だけのものではありません。それはイエスさまの一部であり、聖霊さまのお住まいです。その前提で、私たちは自分の行ないを決定しなければなりません。

キリストだったらどうするだろう

この体はイエスさまのものです。「もしも、イエスさまが今の自分だったら、一体どのように判断し、行動なさるだろうか?」 そう考えてみましょう。また、「聖霊さまのお住まいを、そんなことのために使っていいのだろうか」と、時々立ち止まって考えてみましょう。

それが、私たちの行動を正しく方向付けてくれるでしょう。

3.神の栄光を現すこと

より積極的な生き方

パウロは20節でより積極的に「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と勧めています。神の栄光を現すとは、神さまのすばらしさが、自分にも他の人にも明らかになることです。

あなたがそれをすることによって、イエスさまのお名前に傷がつかないどころか、イエスさまのすばらしさが明らかになるでしょうか? それとも、ただ単にあなた自身が満足するだけでしょうか。

まとめ

私たちは赦されています。すべしすべからずの律法から解放されています。だからこそ、頭を使って有益な生き方を選び取っていきましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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