夜が明けそめたとき

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ヨハネによる福音書21章1〜14節

(2014.4.20)

参考資料

1節「テベリヤの湖」はガリラヤ湖のこと。

2節「ゼベダイの子たち」は、使徒ヤコブとヨハネ。

7節「イエスの愛されたあの弟子」とは、この福音書の著者(21:24)。伝統的に使徒ヨハネだと考えられています。

聖書からのメッセージ

イントロ

今日は、イエス・キリストの復活をお祝いする礼拝です。イエスさまは、私たちの罪が赦されるために十字架にかかって亡くなりましたが、3日目に復活し、今も生きておられます。

イエスさまが復活なさったことは、今の私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。それはたくさんありますが、今回はその一つを見ていきましょう。まずは、今回の聖書箇所を振り返ります。

1.ガリラヤでの顕現

この後

1節に「この後」と書かれています。それは、イエスさまが復活なさった後、エルサレムで弟子たちの前に姿を現されたことを指しています。本当だったら、弟子たちはすぐにガリラヤに向かい、そこでイエスさまとお会いするはずでした。

復活の朝、女性の弟子たちたちが墓に行ってみると、そこに天使が現れてこう言いました。「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい」(マルコ16:7)

ところが、男の弟子たちは女性たちの報告をたわごとだと思い、復活を信じようとしませんでしたし、ましてやガリラヤに行こうともしませんでした。そこで、イエスさまが弟子たちの隠れ家に現れます。

しかし、その時そこにいなかったトマスが信じなかったせいでしょう、弟子たちはなお1週間もエルサレムにとどまり続けます。仕方なく、イエスさまは再び隠れ家に現れました。こうして、弟子たちはようやくガリラヤに向かったわけです。

ガリラヤに来た弟子たちでしたが、特にやることもないし、食べる物もないということで、漁に出かけます。ペテロとアンデレの兄弟と、ヤコブとヨハネの兄弟は元は漁師でした。ところが、一晩中働いても、小魚一匹とれませんでした。

イエスの顕現

「夜が明けそめたとき」と聖書には書かれています。私はこの言葉が好きです。冷たく暗い夜が終わって、光と暖かさに満ちた何かが始まろうとする、期待に満ちた言葉だと思います。

夜が明けそめたとき、誰かが岸辺に立って、「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と声をかけました。100メートル足らずの距離でしたが、弟子たちにはそれが誰か分かりませんでした。まだ完全に朝日が昇っていないため、薄暗かったからでしょう。

しかし、その人が言うままに、舟の右側に網をおろすと、今度は153匹の大きな魚がかかります。数を覚えているくらい、印象的な出来事だったのですね。

主です

ここで、ヨハネが、あの人はイエスさまだと気づきます。さっきより明るくなったということもそうでしょうが、今回の大漁の奇跡が、以前自分たちが経験した奇跡と非常によく似ていたからでしょう。

それは、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の漁師だった弟子たちが、仕事も家も捨ててイエスさまに従うようになったきっかけの奇跡で、ルカの福音書5:1-11に書かれています。

群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

食事

ヨハネの言葉を聞き、ペテロはすぐに泳いで岸に戻り、他の弟子たちは舟を操って岸に戻りました。すると、イエスさまがパンと魚を焼いておられました。そして、弟子たちは、イエスさまの手からパンと魚を受け取り、朝食を食べました。

やはりガリラヤ湖のほとりで起こった、5つのパンと2匹の魚によって5千人を満腹させた、5千人の給食の奇跡を思い出した弟子もいたかもしれません。

とにかく、今回の出来事は、ヨハネにとって非常に印象深い出来事でした。捕れた魚の数を正確に憶えていたくらいです。いったいなぜでしょうか。それは、この奇跡を通して、弟子たちが「人生はやり直すことができる」ということをイエスさまから教えられたからです。

2.人生はやり直すことができる

失敗した弟子たち

このときの弟子たちは失敗者でした。イエスさまこそ、旧約聖書が到来を約束してきた救い主、イスラエルの王だと信じて従ってきたのに、イエスさまが逮捕されると、我先に逃げ出してしまいました。

ペテロなど、「他の弟子があなたを捨てても、私だけは決して見捨てない」と豪語していたのに、「お前もイエスの弟子だろう」と言われると、「あんな奴、知らない」と3度も言ってしまいました。

エルサレムで復活のイエスさまに会ったとき、イエスさまは彼らの失敗を責めたり、罰したりなさいませんでした。彼らは赦されたのです。しかし、以前のようにイエスさまと親しく話をしたり、笑い会ったり、泣き合ったり、教えをいただいたりはできないだろうと思っていたことでしょう。ましてや、再び信頼されて、神さまのお仕事を一緒にできるなどとは、さすがに図々しくて思いもよらなかったはずです。

あなたも、これだけは赦されないのではないかと思うような失敗をしてこられませんでしたか? あるいは、赦されているかもしれないけれど、以前のように神さまに愛され、祝福されるはずがないと思うような、そんな状態に陥ってはおられませんか?

もう一度やってごらん

しかし、イエスさまは弟子たちに、最初に従うようになったきっかけの奇跡と、同じ奇跡を見せてくださいました。それは、「人生はやり直すことができるんだ。もう一度、私に従ってきなさい。もう一度私と共に神さまのみわざを行なおう」と、声をかけてくださったということです。

人生はいつでもやり直しができます。
ミッションバラバ
ミッション・バラバというクリスチャンのグループがあります。バラバというのは、本当は罪のないイエスさまが十字架にかかることになって、代わりに釈放された強盗殺人犯です。このグループの人たちは、元はやくざでした。しかし、それぞれイエスさまを信じて悔い改め、犯罪行為の代わりに、正義と愛を実践するようになりました。
岩井喜代仁さん
この話をお読みください
中川健一先生
私たち夫婦がお世話になった中川健一牧師は、学生時代にクリスチャンとなり、帝人に就職し、その後マクドナルドに転職なさいました。20代で部長代理になり、仕事にのめり込み、毎晩のように接待で飲み歩き、出し抜いたり出し抜かれたりという戦いに神経をすり減らしていました。幼い頃に、貧しい生活を経験していて、豊かな生活にあこがれていた先生は、いつの間にか神さまよりもお金が大切になっていました。そして、あんなに身近に感じていたイエスさまが、すっかり遠くに行ってしまったように思えました。

しかし、教会では立派なクリスチャンとして奉仕をし、牧師からは「学生諸君は、中川君のような社会人クリスチャンを目指しなさい」と言われます。そのたびに、かえってイエスさまが遠く離れているのを自覚して、心の中で「僕のようになっちゃだめだ」と叫んでいたそうです。

そんな時、過労から熱を出して倒れてしまいました。布団の中で、高熱と罪責感からうなされていたとき、突然聖書の中のイエスさまの言葉が心に響いてきました。それは、イエスさまが逮捕される直前、ペテロに対して「あなたは、鶏が鳴く前に、3度私を知らないと言う」と預言された後におっしゃった言葉です。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)

熱が引いたとき、中川先生は、仕事を辞めて牧師になることを決意なさいました。
増田泰司
私もやり直し組です。神学生の頃、知り合いの牧師がアメリカに行くことになり、その方が開拓して1年の教会の留守を預かることになりました。2年で戻ってくるという約束だったのですが、結局帰ってこないことになり、私が正式に後任になりました。ところが、いろいろなことがあり、わずか5年弱でその教会を閉じることになりました。教会員の人たちは傷つき、私も傷つきました。伝道の意欲などどこかに吹き飛んで、もう二度と開拓伝道はするまいと決意しました。

ところが、そのどん底の中で、神さまはフィリップ・ヤンシーの本と出会わせてくださいました。その本の中には、キリスト教の特徴は、救いが行ないではなく恵みによって与えられることだと書かれていました。そして、恵みとは「神さまにもっと愛されるために私たちにできることは何もなく、神さまにもっと愛されなくなるためにできることも何もない」ということだと。

そして、神さまは、あろう事か、一度失敗した私に、福島で新しく教会を開拓するように促されました。自信があったわけではありませんが、私は一歩を踏み出しました。こうして、皆さんがここにいらっしゃいます。私が優れた牧師だったからではありません。私がへなちょこ牧師だったので、神さまのあわれみと、皆さんの愛によって、ここにこうして中通りコミュニティ・チャーチが存在しているのです。

復活の初穂であるイエス

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(第1コリント15:20)

初穂とは、その畑の穀物からとれる最初の収穫物のことです。初穂が良ければ、後に続く収穫物もすべて良い物だと分かります。イエスさまが復活なさったように、私たちも復活するのです。

十字架刑によって、イエスさまの働きは途中で挫折したように思われました。しかし、イエスさまは復活して、今も神さまのご計画を遂行しておられます。

私たちも失敗するかもしれません。挫折するかもしれません。しかし、それで終わりではありません。人生はやり直すことができます。

一度失敗し、神さまに引き上げていただいたおかげで、私は確信を持って伝えることができます。人はやり直すことができます。一度どころか、何度でも立ち直ることができます。私たちの信じるイエスさまは、復活して今も生きておられるからです。

まとめ

恵みを信じて、何度でも立ち上がりましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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