知識と愛

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コリント人への第一の手紙8章1〜13節

(2014.4.27)

参考資料

9節「つまずき」は、人の信仰が成長するのを邪魔したり、誤った方向に導いてしまったりすること。

聖書からのメッセージ

イントロ

また新しい問題についてパウロが回答しています。今回は「偶像に捧げた肉」についてです。ここから、現代の私たちの行動原則を導き出しましょう。

1.偶像にささげた肉の問題

問題のポイント

1節の「偶像にささげた肉」とは、コリントの異教の神殿にささげられた肉のことです。その一部は神殿で働く人々が消費しましたが、残りは市場に卸されて市民が買い求めていました。ですから、クリスチャンがそれを買うということもあり得たのです。また、神殿で行なわれる異教的な祭りや行事、冠婚葬祭での会食に、そういう肉が出されることもありました。

コリント教会では、クリスチャンがそのような「偶像にささげた肉」を食べていいのかということについて意見の一致が見られず、パウロに質問状を送りました。

2つの意見

コリント教会には、大きく2つの意見がありました。一つは、偶像にささげた肉を食べることは偶像礼拝だからしてはいけないという意見。

もう一つは、たとえ多くの人々が信じて拝んでいたとしても、聖書の神以外に神は存在しないのだから、偶像にささげた肉もただの肉である。だから食べても全然問題ないという意見です。

日本の教会に置き換えると

日本にも、様々な異教的な風習、習俗があります。

仏式や神道式の冠婚葬祭の儀式に呼ばれることもあるでしょうし、その後会食に招かれることもあるでしょう。そういう儀式に参加していいのでしょうか。参加して祭壇に向かって頭を下げたり、焼香したりしていいのでしょうか。そして、会食で飲み食いしたりしていいのでしょうか。

同居する家族がまだクリスチャンではない場合、おそらく家の中に仏壇や神棚があるでしょう。お菓子や果物などの頂き物があった場合、一時的に仏壇や神棚に供えてから食卓に出されるという家も多いはずです。そういうお菓子や果物を食べていいのでしょうか。

中通りコミュニティ・チャーチのある須賀川市では、冬に入る前に「松明明かし」という祭りがあります。何メートルもの巨大な松明を何本も立てて、そこに火をつけるという火祭りです。この祭りの由来は、戦国時代に伊達政宗に攻められて滅んだ須賀川城の人々や伊達軍の戦死者の魂を鎮めるためでした。クリスチャンがこの祭りを見物に出かけていいのでしょうか。また、祭りの屋台でチョコバナナを買って食べると、偶像にささげられたチョコバナナを食べることになるのでしょうか。

家を建てる際には神道式の地鎮祭や棟上げ式が行なわれるのことがほとんどですから、借家に住むとしたら、まず間違いなく「偶像に守られた家」に住むことになります。クリスチャンがそういう家に住んでいいのでしょうか。

20年ほど前、キリスト教界で霊的地図作りというのが流行ったことがあります。教会や自宅の周りに、どんな偶像や異教の施設があるかを調べ、その地域がきよめられるように祈るというわけです(私はやったことがありませんが)。あなたの住んでいる地域には、その地域の菩提寺や鎮守の神社があるはずです。我が家は牧師に棟上げ式をやってもらったし、食べ物は全部産地直送で偶像にささげられていないから関係ないというわけにはいきません。家や畑の土地自体が、偶像にささげられているからです。

私の知っている教会は、神社のすぐそばに会堂が建っていて、礼拝に出席するためには、神社の鳥居をくぐり、参道の一部を通って行く必要がありました。それではまるで神社に参拝しているようなものだから、鳥居や参道の横の藪を踏み分けて入るべきなのではないでしょうか。

プロ野球のペナントレースが始まっていますが、あなたの好きな球団はどこでしょうか。開幕前、おそらくすべてのチームが神社で必勝祈願をしています。どこかのチームを応援するということは、偶像にささげられたチームを応援するということになりはしないでしょうか。

電車やバスに乗るのも問題です。神主に安全祈願をされていますから。自家用車だって、安全祈願をされた工場で作られています。

そう考えると、今回の問題は人ごとではないと分かりますね。日本や、異教的な習俗が根強く残っている国で生活する際、私たちはどんな原則で生きていけばいいのでしょうか。

2.パウロの回答

知識の側面

パウロはこの問題を解くのに、「知識の側面」と「愛の側面」を分けて論じています。

まずは知識の側面。パウロは、「偶像などそもそも存在しないのだから、たとえ偶像の神殿にささげられた肉であっても、ただの肉として食べていい」という意見を支持します。

もちろん、他の神々や仏や先祖を礼拝するつもりで拝礼したり、何かをささげたり、儀式に参加するとしたら、それは偶像礼拝です。死者の運命はすでに神さまの御手の中ですから、私たちが冥福を祈ってもそれは変えられません。だから、死者の冥福を祈るのも間違いです。

しかし、偶像など存在しないと知っていて、気にしていないのなら、何をしてもしなくても、何を食べても食べなくても、それは自由にすればいいのだ、と聖書は教えます。

大切なのは、まことの神さまを信じ、この方のみこころに従って生きることであって、何を食べるか食べないかということではありません。「私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません」(8節)

この原則に則れば、祭りの屋台のチョコバナナだってただのチョコバナナ、どんな人が上棟式とか安全祈願とかをしていようとも、家は家だし電車は電車。気にする必要はないということです。

同様に、神道式だろうが仏式だろうが教会式だろうが、結婚式への参列は結婚する二人への祝福のために参列するわけだし、葬式への参列は遺族の慰めや、大切な人が亡くなったことに対する自分の気持ちの整理のためです。焼香のお香だってただの枯れた植物なのだから、死人を礼拝するためとか、冥福を祈るためとかでなければ、焼香しても即それが偶像礼拝とは言えません。結婚する人を祝福したいとか、遺族を慰めたいという気持ち自体が大事なのであって、その表し方は二義的なものだということです。
ただし、私は別の理由でクリスチャンの焼香を勧めません。それは、この後触れる「愛の側面」や、9-10章で扱うテーマによる判断です。9-10章のテーマについては、こちらをご覧ください。
これが知識の側面です。

愛の側面

しかし、それが正解のすべてではありません。パウロは、愛の側面を問題にしています。確かに、クリスチャンが偶像の宮に行って、偶像にささげられた肉を食べても、それで汚れるとか、サタンにとりつかれるとか、偶像礼拝の罪を犯すとかいうことにはならない。やりたければそうすればいい。これは私たちの「権利」です(9節)。

しかし、9節で「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」と注意しています。「弱い人」というのは、肉体的に、あるいは精神的に弱い人ということではなく、知識の側面の項目で述べたようなことを十分知らない人のことです。

パウロは言います。もしあなたが誰かと一緒に偶像の宮に出かけ、そこで偶像にささげられた肉を食べたとする。それ自体は問題ないけれども、一緒にいる人が知識のない人で、「本当はいけないのになあ」と思いながら、それでも一緒に食べないと気まずいからなどと思って食べたとする(10節)。

この場合、(あなたではなく)その人の心は神さまに従っていません。客観的に罪であるかどうかにかかわらず、「その人自身が『これは罪だ』と信じていることを行なっているからです。ですから、その人は罪を犯したことになります。罪とは、神さまに逆らうことだからです。

「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14:23)

ということは、知識のない人の前で何も配慮しないで飲み食いしたあなたは、悪気はなかったとしても、その人が罪を犯す手助けをしたということになる。これは愛ある行為ではない。それどころか罪深い行為でさえあるよね、とパウロは指摘するのです。

だから、知識の側面だけ考えれば、私たちは自由であって、何をしても何をしなくてもいいのだけれど、その自由が人を傷つけたり、人の幸せをぶちこわしにしたり、人を信仰的につまずかせたりする恐れがあるならば、私たちは自分の自由を、自発的に制限する必要がある。それが愛だとパウロは言います。

それでは、ここまでの話をまとめてみましょう。

3.私たちの行動原則

正しい知識に基づいているか

パウロは、知識を否定しているわけではありません。私たちは常に正しい知識を持つよう努めなければなりません。それが私たちを、「すべし、すべからず」という間違った重荷を勝手に負って苦しむというような状態から解放し、自由にします。

「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)と書かれている通りです

私たちの知識は、神さまのくださったメッセージ集である聖書から読み取らなければなりません。この世の常識も大切だし、私たちの気持ちや考えも大切です。しかし、いつも聖書に帰り、聖書が何を教えているかということを判断の材料にしましょう。

兄弟愛に基づいているか

表面的にどんな行動をするかも大切ですが、それよりもその行動が愛の心に基づき、さらに愛の結果を生み出しているかということが問われています。

私の行動や言葉は、愛に基づいているでしょうか。私の行動や言葉は、人を励まし、成長させ、その人をより神さまに近づけるでしょうか。それとも何にも考えないでしゃべったり行動したりしていないでしょうか。もしくは、人を意気消沈させ、罪に追いやり、神さまから引き離すでしょうか。

私たちは、自分の言動が他の人からどう見られているかを気にする必要があります。それは、自分が他の人に非難されることを恐れるからではなく、自分の言動が他の人の信仰をつまずかせることを恐れるからです。

神さまへの愛に基づいているか

そして、最終的には、神さまへの愛が問われます。肉を食べるにしても、食べないにしても、神さまへの愛の故に、堂々と喜んで、自分が決めたとおりにすることが大切です。

私がビジネスの勉強をしたとき、先生の一人がこういうことを教えてくれました。「あなたの愛する奥さんや子どもたちに、『これが私のやっている仕事だよ。これが私の売っている商品だよ』と堂々と紹介できないようなビジネスをしてはいけないよ」と。

神さまに堂々と報告できないようなことをしてはいけません(隠しても、どうせお見通しなんですが)。むしろ、神さまへの感謝にあふれて、いろいろなことを行ないましょう。

なぜなら、神さまはあなたのことを一方的に愛し、ただで救ってくださり、考えられないような祝福を用意してくださっているのですから。そして、イエスさまは、あなたの罪が赦され、神さまの子どもになれるよう、自分からすすんで身代わりとなり、十字架についてくださったのですから。

ローマ14:1-8で、パウロはこう語っています。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」

まとめ

知識と愛、その両面において成長しましょう。

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