すべてのことを福音のために

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コリント人への第一の手紙9章1〜23節

(2014.5.4)

参考資料

6節の「バルナバ」は、故郷のタルソの町にいたパウロをアンテオケ教会に招いた伝道者で、第1回伝道旅行では親戚であるマルコと共にパウロに同行しました。

11節の「御霊のものを蒔いた」は、伝道して救いに導き、その後信仰生活について指導したということ。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回も、異教的な習慣や習俗が根強いこの日本にあるクリスチャンとして、どのように行動を選択していくか、その基準を学びましょう。

1.権利を放棄する生き方

主の働き人の権利

まず、1-11節、及び13-14節を見てみましょう。ここで言われていることは、使徒や伝道者などのキリストの働き人は、教会から経済的なサポートを受ける権利があるということです。

ところが、12節や15節では、コリントではその権利を行使しなかったと語っています。すなわち、コリント教会で奉仕している間も、コリント教会から経済的なサポートを受けなかったということです。

権利を放棄した理由

12節にはその理由が書かれています。「それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです」。

8章で、パウロは偶像にささげられた肉について語りました。そもそも偶像など存在せず、肉は肉に過ぎないのだから、食べたければ食べればよろしい。それはクリスチャンに与えられた自由に基づく権利です。しかし、もしもそうすることで知識のない人を信仰的につまずかせてしまうならば、私たちはその権利を放棄すべきなのだと。

ここでもパウロは人につまずきを与えないように、自分に与えられている権利を放棄したと述べています。

教会から給料を受け取ることは、彼に与えられた権利であり、イエスさまも認めておられることです。そして、ピリピ教会からはたびたび経済的な援助を受けていたことが分かっています(ピリピ4:15-16)。

しかし、もしもお金や物を受け取ることが伝道の妨げになるとしたら、パウロは喜んでその権利を手放して、自分の手で働く覚悟があったし、実際にコリントでは給料や援助を受け取りませんでした。

ピリピのクリスチャンたちは、自分たちも貧しく迫害に苦しんでいましたが、パウロやエルサレム教会のクリスチャンたちのために、喜んで贈り物をするような人たちでした。ところが、コリントはピリピよりも迫害が少なく、また経済的に裕福な町だったにも関わらず(いや、だからこそかも知れませんが)、救われた後も富に執着する人々がいたようですね。

そのようなわけで、コリント教会で個人的なサポートを求めると、つまずく人が出てくる恐れがありました。そこでパウロはサポートを求めなかったのです(第2コリント12:16を見ると、そこまで配慮しても、なおパウロを詐欺師扱いする人がいたようですが)。

より積極的に

19節では、単に「つまずきを与えない」だけでなく、より積極的な言い方をしています。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」。さらに、23節では「私はすべてのことを、福音のためにしています」と語っています。

パウロの心の中にあったのは、とにかくできるだけたくさんの人々がイエス・キリストを信じて救われることでした。

ここから、私たちの行動原理の一つを導き出しましょう。

2.それは伝道につながるか

キリスト、聖書、教会に近づける

人が救われるためには、イエス・キリストを信じる必要があります。ですから、私たちはあらゆる機会を用いて、イエスさまのことを知らない人たちにイエスさまのことを紹介していく必要があります。

また、イエスさまは、聖書についてこうおっしゃいました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)。聖書についてほとんど何も知らない家族や友だちに、聖書についてほんの少しでも興味を持ってもらったとしたら、それは大きな伝道の一歩です。

そして、教会はキリストの体であると聖書は教えています(12:27、エペソ1:23)。自分一人でイエスさまや救いや聖書について説明できなくても、教会の礼拝式や他の集会、イベントなどに誘うこともまた、伝道の大きな一歩です。

焼香の問題

前回、仏式葬儀における焼香の問題に触れました。偶像など存在しないのですから、焼香それ自体が罪だとは言えないけれど、人をつまずかせる恐れを考えると控えた方がいいだろうと申し上げました。

それとは別の理由もあります。それは、伝道という要素を考えたとき、あえて焼香をしないという選択をすることによって、クリスチャンの死生観と、一般の日本人の死生観が違うということを示す方が効果的だと思われるからです。世の人たちと全く同じ生活をしていたら、迫害やトラブルは起こらないかもしれませんが、伝道も成立しません。クリスチャンがまだ信じていない人と何か違うところがあるからこそ、人は救いに興味を持ち、伝道が成り立つのです。

一方で、焼香しないと「クリスチャンは死者を冒涜している」とか「先祖を大切にしない」とか思われて、伝道の妨げになるという意見もあります。確かにその恐れはあります。ただ、普段から、親戚や近所の人には、自分はクリスチャンだから、葬儀があったときには焼香はしないけれど、死者を悼んだり先祖に感謝を表したりするために、代わりに聖書の神さまに遺族の慰めを祈らせてもらいますねというようなことをPRしておくことで、悪く思われる危険もかなり回避できるでしょう。また、そうすることで、実際の場で焼香せず、代わりにキリストの名によって祈ることの意味が、人々に伝わるようになるのです。

しかし、事前によくPRできないときもあります。私の大学の後輩が、卒業してわずか3年で亡くなったときがそうでした。お通夜はアパートで行なわれ、ご遺族が遺体のすぐそばにいらっしゃいますので、焼香しないとかなり目立ちます。他の人たちは、ご遺族に頭を下げてから焼香し、手を合わせていました。私は心の中で神さまに祈りました。自分がどう振る舞ったら良いか教えてください。そして、自分の振る舞いによって、遺族が慰められ、イエスさまのことを少しでも証しできるチャンスとなりますように、と。

私の順番が来たとき、ご遺族に向かってお悔やみの言葉を述べた後、こう申し上げました。「私はクリスチャンで、焼香はできませんが、代わりに皆さまの慰めのためにお祈りさせていただいてよろしいですか?」 そして、お母さまがお願いしますとおっしゃったので、声を出して祈りました。すると、お母さまも、そして結婚したばかりの奥さまも、涙を流して感謝してくださいました。その後お目にかかっていませんが、いつか他のクリスチャンが伝道しようとしたとき、ほんの少しでも好印象を持ってもらえるきっかけになっていたらと願います。

すべてことを福音のために

私たちの一挙手一投足は、この世の人たちに見られています。意識しすぎて萎縮してしまうことがあってはなりませんが、願わくは、私たちの生き方を通して、人がほんの少しでもイエスさまや聖書や教会に近づき、いつの日にか救いを体験しますように。

すべてのことが伝道につながるのですから、場合によっては、失敗や弱さもまた用いられます。大切なことは、(私たちではなく)イエスさまのすばらしさが伝わることです。

私たち自身も、先輩クリスチャンの方々のさりげない生き方を通して、救いに近づいたはずです。この話をお読みください。今度は私たちの番ですね。

まとめ

あらゆることを、福音のために行ないましょう。

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