霊的アスリートの心得

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コリント人への第一の手紙9章24〜27節

(2014.5.11)

参考資料

25節の「朽ちる冠」は、古代ギリシャの競技(古代オリンピックなど)で勝者に与えられた、月桂樹の葉で作った冠のこと。当然、日にちがたてば枯れてしまいました。

聖書からのメッセージ

イントロ

前回・前々回、クリスチャンは自由が与えられているけれど、愛や伝道のために、あえて自由を放棄することが求められるということを学びました。そのため、パウロは厳しい生活を送ることもありましたが、どうしてそのようなことができたのでしょうか。

3週間前に韓国でフェリーの沈没事故が起こりましたが、船会社のオーナーが新興宗教団体の代表だったことが分かりました。彼らは、「キリストによってすでに救われているのだから、肉体が犯す罪は関係がなく、よって日々の悔い改めも必要ない」と教えているようで、一般のキリスト教会からは異端として認識されています。この教えのどこが間違っているのでしょうか。

すでに救われて天国行きが確定しているはずの私たちが、なおまだ救われていない修行僧のように、この地上で神さまのみこころを熱心に学び、これに従うことに命をかけなければならないのはなぜでしょうか。

1.すでに救われているのか否か

福音の恵みをともに受ける者となるため

パウロは、23節で、「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」と語っています。

「福音の恵みをともに受ける」というのは、「救われる」という意味です。ここだけ読むと、パウロほどのスーパー・クリスチャンでもまだ救われておらず、救いを得るためにがんばって良い行ないをしなければならないというふうに理解できます。

救いは行ないによるのではない

しかし、同じパウロが、救いは行ないによるのではなく、神さまからの一方的な恵みによって与えられるのであり、それを信じる信仰によって私たちのものになるのだと繰り返し語っています。

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16)

これはどう考えたら良いのでしょうか。

救いは幅広い概念である

救いというものを、「永遠のさばきを免れる」という意味でとらえるならば、ガラテヤ書に書かれているように、救いは行ないによらず、恵みと信仰によって私たちのものとなります。あなたが人生のどこかで福音(第1コリント15:1-8)を信じたことがあるならば、あなたの救いは確定しており、あなたが永遠の裁きを受けることはありません。一般的な言い方をすれば、地獄ではなく天国行きが決まっているということです。

しかし、救いというのは、単に地獄に行かないということではありません。地獄ではなく天国に行くとしても、その天国においてどのような報いをいただくかは、この地上でどのような生き方をしてきたかが配慮されます。

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2:6)

「良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています」(エペソ6:8)

私たちはすでに救われています。その救いは、私たちがどんなに失敗しても取り消しになることはありません。しかし、救いは単に地獄に行かないということではなく、天国において永遠に味わうことができる祝福の量や質を決めます。24-25節で、「賞」とか「朽ちない冠」と呼ばれているものです。

だから、だからパウロは、自分の欲望のままに生きたいと願う自分自身を打ち叩いても、神さまのみこころを実行しようとしたのです。

2.霊的アスリートとして生きる

みこころを知る努力

パウロは、クリスチャンをアスリートにたとえました。アスリートは、栄冠を得るために様々な努力をします。霊的なアスリートである私たちは、天国ですばらしい栄冠をいただくために、どんな努力をする必要があるでしょうか。
  • 第1に、神さまのみこころがなんなのかを知るための努力です。クリスチャンは、毎日聖書を読み、あるいは週ごとに他のクリスチャンと共に集まって聖書の学びをします。
  • また、他のクリスチャンたちと交わることで、他の人がどのように神さまのみこころを理解しているかを知ろうとします。
  • そして、折に触れて祈りを捧げますが、ただ単に自分の願いを神さまに聞いてもらうだけの祈りではなく、神さまが自分に何を求めているのかを聴く、沈黙と傾聴の祈りも心がけましょう。

みこころを実践する努力

みこころを知ったならば、それを実践します。ユダヤの文化において、単に頭で知っているというのは知っていることになりません。実践的な知識こそ、まことの知識です。

今までしたことがないことをやろうとすると、慣れていないために失敗するかもしれません。他の人から馬鹿にされたり、邪魔されたりするかもしれません。自分でも、こんなことをやっても意味がないという思うかもしれません。

それにもかかわらず、何度も何度もチャレンジし続けることによって、その行動が自分の一部となっていきます。あきらめないで続けましょう。

みこころにかなわないものを捨てる努力

1日は24時間しかありません。同時に2つの場所にいることもできません。何かをすることを選ぶということは、それは同時に何かをしないことを選ぶことでもあります。

神さまのみこころがよく分からないときは、とりあえず神さまのみこころとは言えないだろうなと思うことを手放してみることです。もしかしたら、自分はこれまで価値のないことに時間やエネルギーやお金を使ってきたなあとびっくりするかもしれません。

そうやって無駄なものをそぎ落としていくと、本当にしなければならないことに集中したり、ゆっくり休んでパワーを蓄積したり、成長のための勉強や訓練をしたりすることに、十分なエネルギーや時間を注ぎ込むことができるでしょう。

まとめ

たとえ目立たなくても、天国において認められるような優れた霊的アスリートとして、日々修練していきましょう。

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