礼拝での身だしなみ

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コリント人への第一の手紙11章1〜16節

(2014.6.1)

参考資料

「かぶり物」は、現代の中東の女性がつけているような、頭部を覆うベールをイメージしてみてください。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回の箇所を表面的に読むと、「女性はかぶり物をつけないで礼拝に参加してはいけない」と教えられているように思えます。しかし、中通りコミュニティ・チャーチで、礼拝式にベールをかぶって礼拝した女性はこれまで一人もいませんでしたし、世界の多くの教会(特にプロテスタント)も同様でしょう。では、いったい何を教えているのでしょうか。

1.礼拝の際の服装をどうするか

これまで学んだ5つの判断原則

8〜10章では、パウロは偶像にささげられた肉を食べてよいかどうかという問題について語りました。それを通して、私たちは5つの判断原則を学びましたね。復習すると、
  • 知識……聖書がそれについて何を教えているか。はっきり禁じられていなければ、自由に選んでよい。
  • 他の人への愛……自分の言動によって他人を傷つけたり、信仰的につまずかせたりする恐れがあるなら、その人へのために、自分の権利や自由を自ら制限すべきである。むしろ、他の人を幸福にし、信仰が成長するような行動を選ぶ。
  • 福音宣教……イエス・キリストによる救いが、今よりもっと世の人たちに伝わるような行動を選ぶ。
  • 悪霊への警戒……私たちと神さまの仲を裂こうと狙っている悪霊の悪巧みを警戒し、むしろ神さまとの関係が深まるような行動を選ぶ。
  • 神の栄光……神さまのすばらしさが、今よりももっと自分にも周りの人にも明らかになるような行動を選ぶ。
礼拝時の服装についても、これらの原則に則って判断すればいいのです。礼拝の時にどのような服装をするかについては、特にイエスさまも使徒たちも教えていません。ですから、基本的にはどんな格好でもかまわないということです(知識の原則)。

ある人は、最高の礼服で礼拝式にいらっしゃいます。それは、神さまへの尊敬を表すためです。また別の人は普段着でいらっしゃいます。それは、罪を赦され、あるがままの自分が神さまに受け入れられているということを感謝するためです。それぞれ神さまのすばらしさを服装で表しています(栄光の原則)。

ただ、さすがに裸では困ります。他の人がどきどきして礼拝に集中できませんし(愛の原則)、その前に日本では警察に捕まりますから、他の人への証しにもなりません(福音宣教の原則)。

この箇所が教えていないこと

では、この箇所はどうでしょうか。もしもこの箇所が「女性が礼拝するときにはベールをかぶるべきだ」と教えているのであれば、知識の原則によって、下はTシャツとジーンズであっても、着物であっても、ジャージであっても、女性はベールをかぶるべきです。

ただ、この箇所はそういうことを教えている箇所ではありません。これは当時のローマ社会で、それも特にコリントの教会で問題になったことへの指導です。

パウロは、コリント教会の女性がベールをかぶって礼拝すべきだということを教えるために、たとえば14-15節でこう語っています。「自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです」。

しかし、当時のコリントではそうだったかもしれませんが、男性がロングヘアにしたり女性がショートヘアにしたりしても、別に恥ずかしいと感じない地域もあったでしょう。ユダヤ人だって、特別な誓願(願ったことがかなった暁にはこれこれのことをしますという誓い)を立てている人は、ナジル人(びと)と呼ばれ、誓願を立てている間は髪の毛を切らなかったので、女性はもちろん男性でもロングヘアでした。もちろん、時代によっても、性別と髪の毛の長さについての価値判断は変わります。

では、パウロはなぜコリント教会の女性に対して、こんな指導をしているのでしょうか。次はそこを考えてみましょう。

2.パウロが問題視した点

性的にきわどい格好だった

一つは、今の日本の文化には当てはまりませんが、当時のギリシャやユダヤにおいては、女性が外出するときには、頭を布で覆うということが常識であって、人前で女性が髪の毛をさらすのは恥ずかしいこととされていた、ということです。

一説によると、人前で髪の毛をさらす女性は、売春婦ぐらいのものだったということです。今の私たちにはあまり理解できませんが、女性が髪の毛をさらすという行為には、男性を性的に誘惑する意味があったのでしょうね。源氏物語などを読むと、昔の平安貴族も、女性の黒髪をちらっと見ただけで恋に落ちたようです。

そうすると、現代の日本に当てはめれば、裸やそれに近い露出度の高い服装で礼拝しているのと同じ衝撃を周りの人たちに与えるということになります。すると、先ほど見たように、愛の原則や福音宣教の原則などから考えて、ふさわしくないという判断になりますね。

礼拝の無秩序

では、どうしてコリントの女性信者たちは、当時の文化では恥ずかしいとかきわどいとか思われたような格好で集会に参加したのでしょうか。もしかしたら、礼拝が始まるまではベールをかぶっているのに、礼拝している間に、興奮のあまり思わずベールを脱ぎ捨ててしまうのかもしれません。

実は、コリント教会の礼拝式が無秩序だということは、14章でも問題にされています。コリント教会には、様々な奇跡を行なう能力を神さまに与えられた人たちがたくさんいました。神さまの言葉を直接聞いて取り次ぐ、預言の力が与えられている人たちもたくさんいました。ところが、一人一人順番に語ればいいものを、何人もの人たちがいっぺんにしゃべるので、他の人たちは何が語られているのか分からないという状態だったようです(14:29-34参照)。

女性がベールをかぶっていないというのは、コリント教会の礼拝の混乱ぶりを象徴するような出来事だったのでしょう。これがパウロが問題視した二つ目の理由。

男女の役割に関する無秩序

そして三つ目は、コリント教会では、リーダーシップに関して、男女の役割の混乱があったということです。それは、パウロがわざわざ男女関係の秩序の話をしていることから分かります。

この点については、次のポイントでより詳しく見ていきましょう。

3.リーダーシップの秩序

女性のリーダーシップ

パウロは、男性が先に創造され、女性がその助け手として創造されたという話を持ち出し、「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです」(10節)と語ります。

もちろんパウロは、女性は男性よりも劣っているとか、男性ほど神さまに愛されていないとか、ただ黙って男性に隷属していればいいとかいうような、男尊女卑の思想を持っていたわけではありません。11-12節で「とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています」と語っているとおりです。

また、女性はリーダーに向かないとか、決してリーダーになってはいけないということを教えているのでもありません。聖書を見ると、立派な女性のリーダーも登場します。たとえばプリスキラはパウロとともに伝道の最前線で働いていましたし、フィベはケンクレヤ教会の執事(役員)であって、パウロも彼女を高く評価していました。旧約聖書の時代にも、デボラは士師としてイスラエルを導きましたし、他にも女性の預言者たちが活躍しました。

コリント教会固有の問題

コリント教会にも、奇跡などの様々な特別な能力を神さまから与えられた女性たちがたくさんいました。彼らがそれらの能力を使って神さまに仕え、この世で奉仕し、生き生きと活動することを神さまは望んでおられました。だから、そのような能力が与えられたのです。

では、コリント教会の問題は、どこにあったのでしょう。パウロの言い回しから想像できるのは、そういう女性たちが男性信者たちと協力しながら、ではなく、むしろ彼らを押しのけて、教会の方向性を決めようとしたり、活動内容を決めようとしたり、集会を導こうとしたりしたということでしょう。

また、14:34-35に「教会では、妻たちは黙っていなさい。……もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい」と書かれているところを見ると、説教の最中に分からないことがあると、大声で周りの人に質問したり、説教者の話を遮ったりしたのかもしれません。

当時の文化では女性がつけるべきだとされていたベールを取るという行為が、コリント教会でリーダーシップがうまく発揮できず、その結果として様々な混乱、特に礼拝の混乱をもたらしている、その象徴的な行動にパウロには見えたのでしょう。

投票権と議長権

では、男女のリーダーシップの秩序をどのように聖書は教えているのでしょうか。パウロも、そしてペテロも「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい」(第1ペテロ3:1)と教えています。

柿谷カウンセリングセンター代表で牧師の柿谷正期先生は、夫婦関係に関する講演の中で、「妻は夫に従え」という聖書の命令をこのように解説しておられます。
夫婦を議会にたとえるなら、夫も妻も1票ずつの投票権を持った議員であり、夫にはさらに議長権も与えられている。だから、最初はそれぞれに意見を述べて、充分に話し合いをしなければならない。しかし、最終的に議決の時になり、両者の意見が対立した場合には、夫が議長として投じる1票が最終判断となる。

たとえば、台所の壁紙の色を決める夫婦会議を行なうとする。妻は落ち着いたベージュがいいと言い、夫は華やかなピンクがいいと主張した。まずはじっくりお互いの意見を述べ、相手の話に耳を傾ける。それで決まればよし。決まらなければ、投票は1対1で同数なので、議長、すなわち夫が改めてもう1票を投じる。

ここで、できた夫なら「我が家では、妻が主に料理を作ってくれている。台所にいる時間は僕よりも妻の方が長い。だったら、妻の好みを優先させよう」と考えて、ベージュにもう1票を投じるかもしれない。

しかし、あくまでも夫がピンクを主張するなら、妻はそれを受け入れる。そして、いったん決まったらもうぶつぶつ言わない。

すると、壁紙を貼り替えて何日かたって、夫がこんなことを言う。「やっぱり、ピンクは落ち着かないなあ」。そんなときでも、妻は「だから言ったでしょう!」などと文句を言ってはいけない。
これが従うということだ、と柿谷先生はおっしゃいます。

もちろん、だからといって夫が好き勝手にしていいということにはなりません。選んだ結果について、それが良いものでも嫌なものでも責任も負わなければならないからです。その覚悟もなく、ただ「黙って俺に従え」というのは通用しません。

また、自己中心的な目的で議長権を使うことも許されません。パウロも語っているとおり、「男の頭はキリスト」(3節)なのですから、キリストが命がけで愛しておられる妻や家族など他の人を無視した、自分の都合や欲望だけを優先するようなリーダーシップを取れば、キリストがその間違いを厳しく正されるでしょう。

妻は夫に従うべきだと言いたいのなら、妻が安心してリーダーシップを託せるような夫になれと神さまはおっしゃいます。「妻は夫に従いなさい」と教えている聖書は、「夫はキリストが教会を愛したように妻を愛しなさい」と教えています(エペソ5:25)。つまり、妻のために死ねと言っているのです。ああ、耳が痛い!

これは、夫婦や男女の間だけでなく、あらゆるリーダーシップに当てはまることです。

まとめ

結局、いつも問われるのは、女性であれ男性であれ、あなたの主人は誰なのか、あなたは誰に従って生きているのか、ということです。自分のその時々の気分とか、自分勝手な欲望とかに従うのではなく、聖書を通してご自分を明らかにしておられる神さまに従いましょう。

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