御霊のあるところに自由あり

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コリント人への第二の手紙3章6〜18節

(2014.6.8)

参考資料

6節「文字」は、モーセの律法を指します。

7節は、モーセが山の上で神さまと会い、律法を授けられた後、顔が光り輝いたという出来事を指しています(出エジプト34:29-35)。

聖書からのメッセージ

イントロ

本日は、今年のペンテコステの祭りです。ペンテコステは、元々はユダヤの大麦の収穫感謝祭(そして、モーセの律法が与えられたことを記念する祭り)で、大麦の収穫感謝祭である「初穂の祭り」から50日目(7週間後)に当たることから、五旬節とか七週の祭りとも呼ばれます。イエスさまが復活して天にお帰りになった直後のペンテコステの日(昇天の10日後)、天から聖霊さまが降ってこられ、弟子たちの内側にとどまられました。

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒2:1-4)

そして、弟子たちはまるで別人のように愛と勇気に満ちあふれ、大胆に伝道を始めて、その日だけで3000人が救われました。ですから、ペンテコステは教会の誕生日としても知られています。

また、この日以来、人がイエスさまを信じて救われクリスチャンになると、聖霊さまはその人の内側に住んでくださいます。そして、17節には「主の御霊のあるところには自由があります」と書かれています。聖霊さまと共に生きている私たちには、どんな自由が与えられているのでしょうか。

1.罰からの自由

御霊と文字

パウロは6節で、自分たち伝道者は聖霊に仕える仕事をしていると語っています。そして、それに対するものとして、文字に仕える仕事について語っています。文字とは、ここではモーセの律法のことを指します。

モーセの律法とは、かつてエジプトで奴隷状態になっていたイスラエルが、神さまによってそこを脱出したとき、リーダーのモーセを通して授けられた様々な命令のことです。

律法は、神さまのみこころを文字として書き表したものです。そこには、神さまを信じる者が何をしなければならないか、また何を避けなければならないかが明確に書かれています。

文字は殺す

ところが、イスラエルの人々は、律法をあまりまじめに守ろうとしませんでした。むしろ、それに逆らうようなことを何度も何度も行ないました。

残念ながら、イスラエルだけでなく、神さまの命令を完璧に守れる人は、地上には誰もいません。人となられた神であるイエス・キリストただお一人だけが守ることができました。それ以外の人たちは、現代の私たちも含めてみんな不完全です。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10-12)

そして、律法に違反した者に対する刑罰は死です。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。律法がはっきりと神さまのみこころを示せば示すほど、私たちに人間の罪が明らかになり、その刑罰も明確になるのです。ですから、今回の箇所でも、パウロは「文字は殺す」(6節)と語っています。

御霊は生かす

しかし、その一方で「御霊は生かす」とパウロは書いています。聖霊さまは、私たちに罪を示し、悔い改めに導き、そしてイエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちをもたらしてくださいます。

イエスさまの十字架と復活を信じた私たちは、もう神さまの罰を恐れる必要はありません。罰を恐れなくていいどころか、私たちは神さまの子どもとされ、考えられないような祝福をいただくことができる身分とされました。

私はOKだという確信

私たちが生き生きと生きていくためには、どこかで「私はOKだ」という確信が必要です。
  • 私はここにいていいという確信。「ここ」とは、家庭、教会、学校、職場、地域、日本、この世などです。自分はここにいてはいけない、いない方がましだと思っていたら、落ち着いて生きていけませんね。
  • しかも、ここにいていいだけの価値がある存在だという確信。存在していることが喜ばれているのではなく、仕方なく存在が認められているというのでは、やっぱり落ち着きません。
  • そして、その価値は、永遠に変わることがない。たとえば、若くてぴちぴちしていたり、ばりばり働いたりしているから価値が認められるというのでは、年を取ってくると邪魔者になるのではないかと不安になるでしょう。
これらの確信がないと、私たちは自分の価値を証明しなければならなくなります。そして、ムリして自分を立派に見せようとしたり、お金とか物とかを集めようとしたり、自慢話を繰り返したり、いつまでも過去の栄光に縋ったり、他人を非難して自分を良く見せようとしたりしなければならないでしょう。そういう生き方は不自由です。

しかし、聖霊さまを通して私たちにもたらされたイエスさまの救いは、私たちがあるがままの姿で神さまに愛された価値ある存在だということを教え、自由を与えてくれます。イエスさまを信じておられるあなたも、いつの間にか心が自由になったのではありませんか?

2.無力からの自由

成長の可能性

救いはただ単に赦されて、あるがままの姿で受け入れられているというだけではありません。聖霊さまは、私たちを内側から造り変えてくださり、イエスさまのようにしてくださいます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(18節)

私たち人間の問題は、何をしなければならないか、何をしてはいけないかを知らないことではありません。知っていてもできないことです。分かっちゃいるのにやめられないことです。無知ではなく無力が問題なのです。

私たちは、クリスチャンになってからも、何度も何度も失敗してきたことでしょう。そして、自分がなんと力のない人間なのか、きよさからほど遠い人間なのか、不純な人間なのかを思い知らされて、がっかりしたり、落ち込んだりしてきたかもしれません。

しかし、イエスさまは十字架の血潮によって、私たちが死ぬまでに犯すすべての罪をあらかじめ赦してくださっています。ですから、罪を犯したり失敗したりしたからといって、それで救いが取り消しになることは決してありません。

そればかりか、聖霊なる神さまは、罪に対して無力だった私たちに力を与えてくださり、内側から造り変えてくださり、少しずつかもしれないけれど、罪を克服して、神さまの御心にかなった生き方ができるようにしてくださいます。

振り返ってみよう

救われてから今までの人生を振り返ってみましょう。救われる前と今とを比べると、どんなことができるようになりましたか? どんなことをやめられるようになりましたか? 必ずあなたは変化、成長しているはずです。聖霊さまがあなたの内に住んでくださっているからです。

まとめ

ますます聖霊さまが私たちの内側に働いて、私たちが聖い生き方、愛にあふれた行動、他の人に勇気や希望を与えるような言葉かけができるように祈り求めましょう。

救いは信仰によって与えられました。聖霊さまによる自由も、「必ずそれが与えられる。いやすでに与えられている」と信じて感謝することによって、あなたのものになります。

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