愛がなければ

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コリント人への第一の手紙13章1〜13節

(2014.6.29)

参考資料

4-7節の主な日本語訳

新改訳

4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

口語訳

4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

新共同訳

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

現代訳

4 愛は寛容であり、情け深い。またねたまない。愛は自慢したり、高ぶったりしない。
5 威張ったり、自分さえよければよいとは考えない。すぐに怒ったりせず、ひどいことをされても気にしない。
6 不正を喜ばず、真理を追い求める。
7 どんなことをも忍び、人を信頼し、希望を抱き、あらゆることに耐える。

リビングバイブル

4 愛はきわめて忍耐強く、親切です。 愛は決してねたみません。 また、決して自慢せず、高慢になりません。
5 決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。 愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。 また、いらいらせず、腹を立てません。 人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても、気にしません。
6 決して不正を喜ばず、真理が勝つ時は、いつも喜びます。
7 だれかを愛する人は、どんな犠牲をはらっても、誠実であろうとするでしょう。 また、いつもその人を信じ、その人に最善を期待し、いのちがけで、その人を守り抜くでしょう。

聖書からのメッセージ

イントロ

この箇所は「愛の章」として有名であり、結婚式などでもよく朗読されます。神さまは、ここから何を私たちに教えてくださるのでしょうか。

1.愛がなければ無意味である

さらにまさる道

パウロは前の章で聖霊の賜物について語り、よりすぐれた賜物を熱心に求めるようにと勧めた後、「さらにまさる道を示してあげましょう」(12:31)と言いました。そして、今回の箇所で愛について述べています。

パウロが言う「さらにまさる道」とは、神さまや他の人に対する愛に基づいて行動するということです。

パウロは、異言や預言や知識の言葉などのすばらしい聖霊の賜物を発揮したとしても、「愛がなければ」、すなわちそれが愛に基づいて行なわれなければ全く無意味だと言いました。どんなに不可能だと思われるような約束をも信じる強い信仰があっても、どれほど捧げ物をしても、たとえ殉教の死を遂げたとしても、それらの行動が他の人や神さまに対する愛に基づいていないとしたら、全く役に立たないのだと。

愛がないとはどういうことか

愛に基づかないとはどういう意味でしょうか。4-7節には愛についての定義が書かれています。「愛がない」というのはここに書かれていることの逆です。

すなわち、愛がない人は、「不寛容で、人に荒々しく接します。また人に嫉妬します。すぐに自慢し、高慢になります。礼儀を重んじず、自分の利益ばかり優先し、怒りに基づいて行動し、自分を棚に上げて人の欠点を責め、不正を犯すことを気にせず、何が真理なのかということにも無頓着です。がまんが足りず、信じようとせず、期待もせず、すぐに根を上げます」

祈りを捧げることはすばらしいことですが、イエスさまはわざわざ人前に出ていって祈りを捧げるパリサイ人を非難しました。彼らが、人にほめられるためにやっていたからです。そこには神さまに対する愛はありません。故にその祈りには価値がありません。

たとえ聖霊の賜物を発揮してすばらしい奉仕をしたとしても、他の働き人に対する嫉妬や対抗心から行なっているとしたら、そこに愛はありません。故にその奉仕には価値がありません。

聖書に基づいて他の人の間違った行動を戒めるのは良いことですが、自分のことを棚に上げて責めたり、自分の方が正しくきよいのだということを示すために相手をこき下ろしたり、イライラしながら荒々しい攻撃の仕方をするとしたら、そこに愛はありません。故にそのアドバイスには価値がありません。

他の人を助けるのはすばらしいことですが、「この人のおかげで余計な手間がかかる」などと不満を感じながら行なうとしたら、そこに愛はありません。故にその援助には価値がありません。

あの人のためと言いながら、その人が本当にそれを望んでいるのかとか、本当にそういう助け方をすることがその人のためになるのかということを確認しないで、あれこれと世話を焼くことは、真理を軽視することですから、そこに愛はありません。故にそのお世話には価値がありません。

自分の行動は愛に基づいていただろうか

私たちは、時々立ち止まって、自分の言動を振り返ってみる必要がありますね。
  • 今の発言は、あるいは今の行動は、本当に愛に基づいた行動だっただろうか。
  • もしかしたら、相手のためと言いながら、実は自分の利益のための行動だったんじゃないだろうか。
  • 自分のプライドを守るためだったんじゃないだろうか。
  • 礼儀に反するような言い方ややり方をしたために、かえって相手を傷つけたり怒らせたりしなかっただろうか。

2.本当の愛があるか

自分の名前を入れてみる

しかし、ここで大きな問題があります。私たちは、聖書が教えているような愛を持っているのかどうかということです。

よくやることですが、4-7節の愛の定義で、「愛」という言葉の代わりに自分の名前を入れて読んでみてください。私の場合は「増田は寛容であり、増田は親切です。また人をねたみません。増田は自慢せず、高慢になりません。増田は礼儀に反することをせず……」。あなたもやってみてください。

どうですか? 最後まで何の羞恥心も罪責感も感じることなく読み切ることができる人がいるとしたら、よっぽど自分が見えない方でしょう。少なくとも、私は恥ずかしくなって途中で読めなくなります。

しかも、8節には「愛は決して絶えることがありません」と書かれています。これがまた問題です。私だって、たまには寛容な気持ちになることがあるし、たまには親切です。そして、たまにはイライラしないで行動できます。しかし、「いつも、いつまでも」ではありません。

ということは、私は自分の内側には聖書が教えているようなレベルの愛はないと認めざるを得ません。これは困りました。これでは、私のやることなすこと、みんな価値がないということになるではありませんか。

愛はどこから来るのか

第1ヨハネ4:7にはこう書かれています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです」。私たちの愛は、聖書に照らせば不完全です。しかし、真実の愛は神さまから来ます。

そして、ヨハネは同じ手紙の5:14-15で、こう語っています。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」

真実の愛は神さまから来ます。また、私たちが愛し合うこと、愛に基づいて行動することは神さまのみこころです。ということは、「私たちが真実の愛に基づいて行動できるように助けてください」と、真実の愛の源である神さまに祈り求めることはみこころですから、その祈りは必ず聞かれます。

謙遜に祈り求めよう

ですから、私たちは、自分の愛が本物でないとか、不完全だとかいうことを素直に認めて、その不完全な愛を神さまが補い、完成させてくださることを期待しましょう。そして、「不完全な私を助けてください」「私と共に、この愛の働きを行なってください」と祈りましょう。

第2列王記4:1-7に、イスラエルの預言者エリシャが、経済的に困窮していた未亡人と子どもたちを助けたという記事が書かれています。エリシャは、母子の持っていた油壺に、ほんの少しだけ油が残っていることを知り、たくさんの空の器を用意するよう命じます。そして、そこに油を注ぐと、次々と油壺から油があふれ出てきました。その油を売ることで、母子は生活費を得ることができました。その時、子どもが「もう空の器はありません」と言うと、油が止まりました。

自分は十分だと思っている人は、神さまからの満たしを受けることはできません。自分が不十分だと認めることは痛いことですが、それを謙遜に認めて神さまに助けを求めるとき、神さまは私たちに愛を補ってくださり、価値のある言動をすることができるようにしてくださいます。

まとめ

神さまが真実の愛を補ってくださるよう祈り求めながら、言葉を発し、行動しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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