死者のゆえのバプテスマ

トップページ聖書のメッセージ集2014年 > このページ


コリント人への第一の手紙15章29〜34節

(2014.7.20)

参考資料

バプテスマとは、洗礼のこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

ペテロは、第2の手紙3:16でパウロの手紙について言及し、「その手紙の中には理解しにくいところもあります」と語っています。今回の「死者のゆえにバプテスマを受ける」(口語訳・新共同訳では「死者のために」)という箇所はその一つかも知れませんね。一体どういう意味なのでしょう。

1.死者のゆえのバプテスマ

代理洗礼?

「死者のゆえの(ための)バプテスマ」については様々な解釈がなされています。その一つが、「生前イエス・キリストを信じないまま亡くなった人が救われるよう、まだ生きている信者がその人の代わりに洗礼を受ける」という解釈です。先祖のために祈る習慣のある日本人には好感が持てる教えかも知れません。異端とされているモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)は、死者のための代理洗礼を行なっているようです。

しかし、生きている信者が、死者の救いのために洗礼を受けるという代理洗礼の考え方は、聖書の教えに反します。人が救われるのは、洗礼によってではなく、イエスさまの十字架と復活に表された神さまの恵みと、それを信じる私たちの信仰によります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)

ありそうな解釈 その1

文脈上ありそうな解釈の一つは、洗礼を受けることで、自分がこの世に対して死んだ(ローマ6:3-5など)ということを表しているという説です。

洗礼はイエス・キリストの死と復活に結びつくことだから、復活を否定しながら洗礼を受けることは洗礼の意味と矛盾します。その点をパウロが手紙の中で指摘しているというわけです。

ただ、この解釈にも疑問が残ります。この解釈のような洗礼なら、ほとんどのクリスチャンが行なっているはずです。なのに、この手紙の口ぶりだと、死者のゆえの洗礼は一部の人しか行なっておらず、パウロ自身も行なっていないように思える点です。

ありそうな解釈 その2

増田牧師が採用している解釈を紹介しましょう。

今回の箇所の文脈は、コリント教会の中に、死者の復活を否定する人たちがいて、それに対してパウロは、復活はあるということを示そうとしているということです。パウロが「死者のゆえのバプテスマ」の話題に触れたのも、その話の流れの中で解釈されなければなりません。

コリント教会の一部に、死者のための代理洗礼を行なう人たちがいました。それはあくまでも一部の人であり、パウロもそれを正統な教えだとは考えていませんが、とにかくそういう人たちがいたのです。

そして、もしも死者の復活を信じないで、なおかつ死後の救いのために代理洗礼を行なっているとしたら、それは矛盾ではないか。そうパウロは語っているのです。

最も重要なこと

どういう解釈を採用するにしても、最も重要なことは「人は死んでも、世の終わりに必ず復活する」ということです。死んで、それで人生が終わりなのではないということです。

2.死んで終わりではない

伝道に意味がなくなる

30節以降で、パウロは、もしも死者の復活がなく、死んで人生がおしまいだとするならばという前提で話をしています。

まず、パウロたち伝道者が命がけで伝道する意味がなくなります。伝道者が伝道に命をかけるのは、人がイエス・キリストを信じて罪の赦しを受け取るかどうかによって、永遠の運命が決まると信じているからです。もしも罪の赦しを受け取らないまま死んでしまえば、世の終わりに復活したとき、永遠の苦しみを味わうことになる。だからこそ、できるだけたくさんの人たちが救われるよう、命がけでイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのです。

刹那的な人生観になる

また、もしも人生が死んで終わりだとすれば、私たちはこのわずか90年前後の人生のことだけ考えていればいいわけで、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるとパウロは言います(32節)。

どうせ死んで終わりなのです。人生に意味があるとすれば、死ぬまでの暇つぶしです。極端な話、どんな生き方をしようが、変わりはありません。真面目に生きようと、いい加減な生き方をしようと、その時その時がおもしろおかしければそれでいいということになります。ばれて捕まりさえしなければ、犯罪行為だってかまいません。実際、最近の日本にはそのような風潮が蔓延しているようです。

復活があるから人生に責任が伴う

しかし、聖書は、人生は死んで終わりではないと主張しています。死んでも必ず復活し、生きていた時の行動を評価され、それに応じた報いをいただくことになります。

だからパウロは言うのです。「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」(34節)。「目をさましていなさい」という言葉は、聖書では「世の終わりが近いことを知って、油断しないように心を引き締め、自分の行動を吟味しなさい」という意味です。

あなたは近視眼的に、現在の快楽、あるいはせいぜい数年、数十年先の快楽のことだけ考えて行動していませんでしたか? あなたが今行なっている行動は、永遠の世界において価値のあることですか?

イエスさまは「天に宝を積みなさい」とおっしゃいました(マタイ6:20など)。永遠に価値があることを行なうという視点に立った時、今のあなたがぜひやらなければならないことは何ですか?

「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」(33節)とパウロは語っていますが、人は触れたものの影響を強く受けるからです。永遠に価値があることを行なうという視点に立った時、友人関係、テレビ番組、書籍など、いつも触れるものの中で見直さなければならないものがありませんか?

まとめ

永遠に価値あることのために、もっと意識と時間を使いましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2014 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.