苦しみのときの慰め

トップページ聖書のメッセージ集2014年 > このページ


コリント人への第二の手紙1章1〜11節

(2014.8.10)

参考資料

1節の「アカヤ」はギリシャの南半分の地域(北半分はマケドニヤ)。「コリント」はアカヤ州にある都市で、交通の要所にあって経済的に発展していました。ここにパウロが1年半留まって伝道し、教会が誕生しました(使徒18:1-11)。

聖書からのメッセージ

イントロ

パウロは、キリストを信じ、キリストに仕えたために苦しい目に遭いました。第1コリント15:32には「エペソで獣と闘った」と書いてあります(文字通り肉食獣のことを指しているのかもしれませんが、迫害者のことかも知れません)。また、第2コリント11:23-28にはこのように書かれています。

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります」

しかし、パウロは喜びに満ちていました。それは、苦しみを乗り越える秘訣を神さまから与えられていたからです。それは何でしょうか。

1.神からの慰めを受け取っていた

どのような苦しみの時にも

3節で、パウロは神さまをほめたたえています。その理由は、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(4節)ということです。

そう言い切れる自信は、実際の体験からきました(10節)。ある時は奇跡によって、ある時は協力者が与えられることによって、ある時は天使によって、ある時は不思議な平安が心を満たすことによって、パウロは様々な苦しみを乗り越えました。

私たちの信じる聖書の神さまは、口先だけの方ではなく、実際に慰めを与えてくださる方、行動なさる方です。

あなたはこれまで、どのような神さまの助けを体験してこられましたか? また、他のクリスチャンたちから、どんな体験を聞かされてきましたか? 今あなたが苦しみの中にいるのなら、それを思い起こしてみましょう。あなたはどんな慰めを感じますか?

神に信頼する

パウロは、「神により頼む」(9節)、「望みを、私たちはこの神に置いている」(10節)と言いました。他の何物でもなく、神さまに信頼しているのだと。

聖書が教える神さまは、死者すらよみがえらせることのできるお方です。神さまに不可能はありません。しかも、その全能の力をお持ちである神さまは、自分を愛してくださっているとパウロは信じていました。

イエス・キリストの十字架によって、私たちのすべての罪は赦されています。私たちを神さまから引き離す罪は、すべて取り除かれました。ですから、全能の力に満ちた神さまはあなたを愛しておられます。神さまはあなたの幸せを心から願っておられます。神さまの奇跡は、慰めは、いやしは、平安は、あなたのすぐそばにあります

パウロは、力と愛に満ちた神さまに信頼を置いていましたので、どんな苦しみの中でも、なお「大丈夫」と安心し、「何とかなる」と希望を持ち続けることができました。

信仰によって

神さまからの祝福をいただく方法はただ一つ。それは信仰です。信仰は、神のおっしゃることを「そうだ」と受け取ることです。あなたは神さまの力と愛を信じていらっしゃいますか?

私たちの頭も心も、偉大な神さまを収めるには小さすぎます。ともすれば、私たちは神さまの愛や力の大きさを小さく見積もりすぎてしまいます。その結果、神さまへの期待が小さすぎてしまうことがあるのです。

あなたの苦しみがどのようなものであっても、神さまは最もふさわしい慰めを用意しておられます。信仰を大きく働かせて、神さまからの慰めを期待しましょう。

苦しいとき、神さまに向かって叫んだり愚痴をこぼしたりするのも良いですが、必ず慰めがくることを信じて告白する信仰の祈りもしていきたいものです。また、苦しんでいる他の人のために祈るときも、その人が必ず祝福に導かれることを信じて祈りましょう。

2.苦しみが無駄にならないことを知っていた

人は意味のないことには耐えられない

人は、物事の意味を考える存在です。ですから、意味のないことには耐えられません。

ロシアの文豪ドストエフスキーは、「最も残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ」と言いました。たとえば、部屋の左に水の入ったバケツを置き、右に空のバケツを置き、左のバケツの水を右に、次に右のバケツの水を左に。これを一日中繰り返すというようなことです。3日もやれば精神がおかしくなってしまうでしょう。

しかし、作物を育てるため、一日中バケツで畑に水を注ぐとしたらどうでしょう。きっと30年やってもおかしくなりません。意味があるからです。

私がイエス・キリストを信じて感謝していることの一つは、お金持ちになったとか、病気がすぐにいやされるとか、そういうことではなく、生きる意味を見出したということです。

もし私たちが苦しみに会うなら

パウロは、自分たちが苦しみに会うのは、何かの間違いなどではなく、ちゃんと意味があることだということを知っていました。まず、「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです」(6節)と言われています。

パウロは、悪いことをしたためにひどい目に遭っていたのではありませんでした。イエスさまの愛とみわざを宣べ伝え、できるだけたくさんの人々が救われるように努力していました。さらに、すでに救われたクリスチャンたちが、霊的にも精神的にも行動の面においても、イエスさまのように成長するよう助けていました。パウロが経験していた苦しみは、そのために味わっているものでした。ですから、苦しみを味わえば味わうほど、彼は自分の行動に意味があることを知り、満足を得たのです。

もし私たちが慰めを受けるなら

そして、「もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」(6節)とも言われています。

もしも神さまがパウロを苦しみから救い出してくださったなら、その体験は他のクリスチャンたちを励ますでしょう。彼らも「神さまにお任せすれば、自分たちもきっと大丈夫」という強い信仰が与えられるでしょう。

また、特に11節でパウロは、コリント教会の人たちに、自分たちのために祈ってくれるようリクエストしています。コリント教会の人たちが祈らなかったとしても、パウロたちが危険から助け出されたら神さまをほめたたえ、信仰が成長するでしょう。しかし、もしもパウロたちのために彼らが祈っていたとしたら、彼らの感動と信仰の成長はより大きなものになります。

パウロは、苦しみが続くとしても、解放されるとしても、どちらにしても教会のためになると知っていました。ですから、激しい苦しみも耐えることができました。

まとめ

神さまは、あなたの経験しておられる苦しみをご存じです。そして、必ず慰めを与えてくださいます。ただちに奇跡的に苦しみが取り除かれるにしても、しばらくその苦しみに耐えなければならないにしても、決して神さまは間違った対応をなさいません。それを信じましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2014 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.