懇願する神

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コリント人への第二の手紙5章17〜21節

(2014.9.21)

参考資料

「神の義となる」(21節)とは、最終的に何が正義かを決めることができる神さま、完全にきよい神さまに受け入れられた存在となるということです。神さまに受け入れられた人は、神さまと自由に親しく交わり、愛され、祝福を豊かにいただくことができます。

聖書からのメッセージ

イントロ

神さまについて、私たちは様々なイメージを持っています。様々な奇跡を行なう偉大な神、悪を滅ぼす正義の神、何でも知っておられる賢い神……いずれも神さまのものすごいご性質をイメージすることでしょう。ところが、今回の箇所に表されている神さまは、力強さとは逆のイメージを示しています。そこから、私たちの生き方を学ばせていただきましょう。

1.神の和解

新しく造られた者

パウロは、イエス・キリストを信じるなら、その人は新しく造られた者だと言いました(17節)。新しく造られたということは、以前の古い姿があるということです。

私たちアダムとエバの子孫は、みんな生まれながらにして罪の性質を受け継いでいます。ですから、いつも自分中心になり、自分の考えや欲望を神さまよりも優先させてしまいます。その結果が罪の行ないです。

罪は神さまの権威を無視し、神さまの存在さえも否定するものですから、当然神さまとの関係は悪くなり、関係が断絶してしまいます。それどころか、正義である神さまによってさばかれ、滅ぼされてしまうでしょう。そういう神さまの敵であり、さばきの対象である私たちが、古い自分です。

ところが、その古い私たちは、イエス・キリストを信じることによって新しい私たちになりました。神さまの敵ではなく、神さまに愛された子どもになりました。永遠の滅びを招く者ではなく、永遠の祝福をいただく者になりました。

神から来た和解

その変化は、私たちの努力や悟りによってもたらされたものではなく、神さまから出たものだとパウロは言います。「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」ました(18節)。

考えてみてください。罪に関しては、神さまの側には全く落ち度がありません。私たち人間が神さまに逆らったのです。神さまは人間によって一方的に存在を否定され、侮辱され、傷つけられました。それにも関わらず、神さまはご自分の方から和解を申し出てくださいました。すなわち、一方的に罪を赦してくださったのです。何という度量の広さでしょうか。

愛に満ちた神さまは、同時に正義の方でもありますから、罪をいい加減に扱って、無かったことにすることはできません。罪は必ず裁かれなければ、神さまの正義が成り立ちません。そこで、神さまは御子イエス・キリストを地上に送りました。そして、イエスさまが私たちの身代わりとなって、罪の罰を受けて十字架にかかってくださいました。こうして、そのことを信じるだけで、私たちの罪が赦されることになったのです。

神さまの懇願

パウロは、さらに20節で驚くべきことを語っています。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」

最後の「受け入れなさい」は、「受け入れてください」という懇願の表現の方がふさわしいでしょう。

神さまは、一方的な被害者のはずなのに、御子イエス・キリストの命という犠牲まで払って、まるで頭を下げて拝み倒すかのようにして、「私と仲直りしておくれ」とお願いをしておられるというのです。

なぜそんなことをなさるのでしょうか。それは、神さまはそれだけ私やあなたと仲直りしたかった。私たちを罪ののろいから救い出し、祝福したくてたまらなかったということです。それだけ、あなたのことを大切に思ってくださるということです。

2.神の謙遜に学ぶ

神というモデル

私たちの天の父なる神さまは、偉大なお方なのにも関わらず、謙遜なお方でもあります。私たちの主人であるイエスさまは、自分は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たとおっしゃいました(マタイ20:28)。父なる神さまの子どもであり、イエスさまのしもべである私たちは、神さまに倣って謙遜でありたいですね。

嫌な気持ちを使った強制

神さまは、私たちに罪をやめて欲しい、ご自分を信頼し、愛し、従って欲しいと思われました。

私たちも、他の人に何かをして欲しいとき、あるいは今の言動をやめて欲しいときがありますね。特に、相手の言動に困っているときには、相手に変わって欲しいと思います。

そんなとき、どのような伝え方をするでしょうか。人を動かすのによく使われるのが、嫌な感情です。相手を嫌な気持ちにさせて、それによって動かそうとするのです。

たとえば、痛みや恐怖心を使うやり方。典型的には暴力ですね。また、心に痛みを与えるのは暴言です。 痛みや恐れを感じた相手は、こちらの思う通りに行動してくれるでしょう。

そして、不安感を使うのが脅しです。思い通りにしないと罰として殴るとか、追い出すとか言って、不安感をあおるわけです。そんなことになるのは嫌だから、相手は思い通りに動くかも知れません。

また、羞恥心を使うのが、嫌みです。「主婦のくせに料理も満足に作れないのか」などと馬鹿にすることで、相手から「なにくそ」という反発を引き出し、こちらの思い通りに動かそうとします。

あるいは、涙や悲しい顔。相手の心に「この人を悲しませるなんて、なんてひどいことをしてしまったんだ」という罪責感を植え付けます。その結果、償いとしてこちらの思い通りに動いてくれるという寸法です。

これらは、いずれも相手を嫌な気持ちにさせ、無理矢理相手を動かそうとする方法です。誰も嫌な気持ちになりたくはありませんから、あるいはこちらの思い通りに動いてくれるかも知れません。しかし、動かされた相手は決してこちらを信頼したり尊敬したりはしてくれないでしょう。

場合によっては、こちらに反発し、復讐したくなるかも知れません。すなわち、こちらが願っていることはしてくれず、むしろ嫌がるようなことをするのです。それでは逆効果ですね。

お願いする

私たち自身、他の人から変わることを強要されるといい気持ちがしませんね。もし私たちが変わるとしたら、納得して、自発的にそうしたいのです。そのためには、「お願い」という方法がベストです。

お願いするためには、何をして欲しいかを分かりやすく説明し、さらにどうしてそうして欲しいのかを説明しなければなりません。その上で、頭を下げてお願いしますから、上から無理矢理やらせようという強制力を感じずに済みます。自発性を尊重しているからです。

ただ、こちらが相手の言動によって迷惑を被っている場合、なぜ被害者であるこちらがそこまで譲歩しなければならないのかと思ってしまうかも知れません。そんなことをすれば、なんだかこちらが負けのような気がします。

ところが、私たちの父である神さまはそれをなさいました。神さまは、地獄の恐怖をちらつかせて私たちを脅して救いに導くこともできました。私たちから自由意志を取り除き、ロボットのような忠実なしもべに変えることさえおできになったでしょう。しかし、そうはなさいませんでした。

謙遜な神さまは、あくまでも私たちの自発性を尊重し、救いに必要な条件を全部神さまの側で用意して、その上で「信じておくれ」と懇願するという形で私たちを動かそうとなさいました。

だから、私たちもそうすることができます。相手を思い通りに動かせれば勝ち、そうでなければ負けというパワーゲームにこだわらないで、父なる神さまがなさったように、イエスさまがなさったように、謙遜にお願いしてみましょう。きっと、人間関係が変わり始めます。

まとめ

神さまの謙遜さに倣いましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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