神のみこころに添った悲しみ

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コリント人への第二の手紙7章5〜13節

(2014.10.5)

参考資料

今回の箇所にまつわる、歴史的な流れ
  1. コリント教会には様々な問題がありました(分派分裂、近親相姦、異端、差別、礼拝の混乱などなど)。コリント教会の混乱を知ったパウロは、紀元55年頃エペソで第1の手紙を書きました。
  2. それでも罪(内容不明)を悔い改めない人がいて、教会もその人に対して何の指導も処分もしなかったため、パウロは直接コリントを訪問しました。ところが、これもあまり効果がありませんでした。
  3. エペソに戻ったパウロは、涙ながらに手紙(8節の「あの手紙」。非現存)を書きます。そして、それをテトスに託してコリントに向かわせました。
  4. エペソでの伝道を終えたパウロは、トロアス(今のトルコの北西部にあった港町に向かい、そこで伝道しながらテトスを待ちましたが、会えなかったのでマケドニヤに渡りました。そして、ようやくテトスと会えて、パウロの涙ながらの手紙とテトスの指導によって、教会が罪を悔い改めない人を除名処分にしたということを聞きました。

聖書からのメッセージ

イントロ

この世が終わった後にできる新しい天地では、もう悲しみはありません(黙示録21:4)。しかし、今の地上には様々な悲しみがあります。その悲しみには、「この世の悲しみ」と「神のみこころに添った悲しみ」とがあります。今回の箇所によれば、「神のみこころに添った悲しみ」は良いもののようです。「神のみこころに添った悲しみ」とはどのようなものでしょうか。

1.罪を認める悲しみ

あの手紙がもたらした悲しみ

「参考資料」の項に記したとおり、パウロはコリント教会の中にあった問題点を、何度も指摘してきました。それでも自分たちの過ちを認めようとしない教会に対して、パウロは涙ながらに手紙(8節)を書き、テトスに託して送り届けました。

その手紙の内容は、コリント教会の過ちを非常に厳しく指摘する内容で、パウロ自身も出したことを思わず後悔しかけたほどだったようです。事実、テトスから教会の状況を聞いたパウロは、確かにあの手紙が教会の人たちを深く悲しませたことを知ります。

悔い改めをもたらす悲しみ

しかし、それは自分たちの人格を否定されたことへの悲しみとか、馬鹿にされたことへの悲しみとか、物事が自分の思い通りに行かないことに対する悲しみとかではありませんでした。。そういった悲しみは、「この世の悲しみ」であって、死をもたらすものです(10節)。

10節には「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」と書かれています。コリント教会の人たちが体験したのは、悔い改めに伴う悲しみでした。

悔い改めるためには、まず自分が神さまのみこころに従って歩んでいなかったこと、神さまと正しい関係にいなかったことを認めなければなりません。それを認めることは決して愉快なことではありません。むしろ苦しく、悲しいことです。だからこそ難しくもあります。

ところが、コリント教会の人たちは、勇気を出して自分の過ちを認めて悔い改めました。

赦されているから

どうして私たちは自分の罪を認めることができるのでしょうか。それは、神さまに赦されていることを知っているからです。もし赦されないことが分かっていれば、私たちはなんとしても自分の罪を認めるわけにはいきません。知らないふりをし、ごまかし、正当化し、責任転嫁するのです。

しかし、イエス・キリストが私たちの罪を全部取り除いてくださいました。イエスさまは、私たちが負うべき罪の罰を全部ご自分で背負い、私たちに罪ののろいが降りかからないようにしてくださいました。イエスさまを信じた私たちは、神さまから罪を赦されているのです。

神さまは決して私たちを罪の故に滅ぼしません。ですから、私たちは勇気を出して自分の過ちを認めることができます。それどころか、罪を認めて悔い改めることによって、私たちは堂々と神さまと交わり、神さまから力や喜びや平安をいただくことができるようになります。

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです」(第1ヨハネ3:21-22)

あなたは、現在、自分自身の心に「これは罪だ」「これは間違っている」という語りかけを感じていませんか? 勇気を出して自分の過ちを認め、神さまに謝罪しましょう。

2.行動を変える悲しみ

行動を変えること

さて、単に自分が罪を犯していたということを認めるだけでは悔い改めとは言えません。間違いを認めたなら、正しい行ないが何かを知り、それを実践する必要があります。
  • 盗みが罪だと認めたら、もう盗まないようにし、損害を謝罪して償う必要があります。
  • 怠惰が罪だと認めたら、努力して働いたり勉強したりし始めなければなりません。
  • 陰口が罪だと認めたら、もう陰口をたたかないようにしなければなりません。それどころか、その人に対する肯定的な評価を口にするようにできればさらに良しです。
  • 貪欲が罪だと認めたら、今与えられているものを感謝し、それを精一杯用いるようにしなければなりません。

変化は痛みを伴う

ところが、行動を変えるのは非常につらいものです。今まで通りのことを続ける方がずっと楽です。

それでも、正しいと分かっていることを実践しましょう。大変ですが、私たちの内に住んでくださっている聖霊さまも助けてくださいます。祈りながら新しい行動を身につけていきましょう。

謝罪や償い

また、たとえば、自分の間違った言動によって他の人を傷つけていたとします。過ちを認め、神さまに謝罪するだけでは不十分です。傷つけた相手に相手にも謝罪しなければなりません。損害を与えている場合には、償う必要もあるでしょう。

相手に謝ることは、恥ずかしいかもしれません。償いには犠牲を伴うでしょう。だから何もしないでいる方が楽です。しかし、それでも新しい生き方に変わる必要があります。
誰のための謝罪?
ただし、ここで注意が必要です。謝罪や償いは自分がすっきりするために行なうものではなく、相手の心のいやしのために行なうものです。ですから、謝罪することがかえって相手を余計に傷つける場合には、どんなに自分がもやもやしても黙っていることが必要です。

Aさんは、同じ教会(ちなみに、うちの教会ではありません)のBさんのことを嫉妬していました。Aさんと同年代のBさんは明るい性格で、教会の中にも外にも友だちがたくさんいたのに、Aさんはそうではなかったからです。

ある日、嫉妬が罪だと神さまに示されたAさんは、Bさんに「私はあなたのことを嫉妬して嫌っていた。愛せなかった。ごめんなさい」と謝りました。しかし、BさんはAさんに嫌われていることを全く知らなかったため、かえって嫌な気持ちになり、しばらくもやもやした気持ちを引きずることになったそうです。

これは、間違った悔い改め方ですね。この場合には、自分の嫉妬心や憎しみは黙っている方が良かったでしょう。そして、Bさんに笑顔であいさつするとか、食事に誘うとか、接し方を変えることに時間とエネルギーを使う方が良かったでしょう。

まとめ

心を探りましょう。神さまが過ちを示しておられませんか? 代わりにどんな行動をするように示しておられますか? たとえ悲しくても、それが罪だと認め、新しい生き方を始めましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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