喜んで与える人

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コリント人への第二の手紙9章1〜10節

(2014.10.12)

参考資料

8〜9章は献金がテーマになっています。この献金は、激しい迫害のために貧しい暮らしを余儀なくされていた、エルサレムのクリスチャンたちへの援助を目的として集められました(ローマ15:26)。この活動は、ピリピやテサロニケなどマケドニヤ地方(ギリシャ北部)の諸教会が熱心に取り組み、アカヤ地方(ギリシャ南部)にあるコリントにも広がりました。ただ、コリントでは次第に献金の熱意が停滞していったようです。

9節は詩篇112:9「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ」の引用です。この詩は、神さまを恐れる正しい人の幸いについて述べています。義とは、神さまに受け入れられ、親しく交わり、大いに祝福されている状態を表しています。

聖書からのメッセージ

イントロ

今日のテーマは献金です。武士道の影響を受けた日本では、お金の話をするのは卑しいことのように感じる人も多いかも知れません。ただ、貨幣経済の下ではお金について考えることは避けられません。聖書がこのテーマについてどのように教えているのかということを知ることは、クリスチャンとして大切なことです。

1.愛の実践を目的とすること

献金の目的

お金を集めること、それ自体に価値があるわけではありません。教会がメンバーのクリスチャンに献金をささげてくださるよう求めるのは、集めたお金を使って何かをする目的があるからです。たとえば、
教会の活動に用いる
教会が地上で行なうべき主な働きは5つあって、「礼拝」「交わり」「教育」「社会のいやし」「伝道」です。礼拝のための週報一部作るのにも、用紙代やインク代や電気代などがかかっていますし、伝道に用いる小冊子だってただではありません。午後の交わりでいただくお茶やお菓子も、皆さんがささげてくださった献金からまかなっているか、どなたかが献品してくださったものです。
教会堂の維持管理に用いる
私たちの教会は毎週3時間だけ会議室を借りて活動していますが、使用料がかかっています。自前の会堂を持ったとしても、水道光熱費、備品代、事務用品やトイレットペーパーや洗剤などの消耗品費、補修費などの費用が発生します。宗教法人でなければ固定資産税もかかります。
牧師などフルタイムで教会のために働いている人の給与
増田牧師はパウロの真似をして外で働いて生活費を得ていますが、牧師が教会から給与を得るのは権利でもありますから(第1テモテ5:17-18)、次に迎え入れる牧師やスタッフにはぜひ給与を支払ってくださいね。

愛の表現

ただ、私たちクリスチャンの行動の根本には、愛がなければならないと聖書は教えています。「また、たとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:3)

ピリピやテサロニケなどマケドニヤ(ギリシャ北部)の諸教会は、迫害のために貧しい暮らしを強いられていたエルサレムのクリスチャンたちのために、お金をささげようと言い、熱心にそれを実践しました。

マケドニヤはコリントと比べると貧しい地域です。おまけに激しい迫害が起こっていて、彼ら自身も決して楽な生活をしていたわけではありません。しかし、彼らは自ら進んで献金を申し出ました。それは、愛を実践できる喜びに満ちあふれたからです。

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(8:1-4)

そして、パウロはコリントの人たちにも献金を実践するように勧めます。その理由は、「こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです」(8:8)。パウロは、献金を「愛の実践」ととらえていました。

教会の5つの働きも、愛の実践のためです。礼拝は神さまへの愛を表すためですし、交わりや教育は教会員同士の愛の実践です。そして、社会のいやしや伝道は外の人たちを助け、愛するためです。会堂やスタッフにお金を使うのも、教会が行なう愛の働きを支えるためです。

ですから、教会で献金をすることは、神さまや人への愛を実践するためです。もちろん、愛の表し方は献金だけだけではありません。しかし、献金の目的は、絶対に愛の実践でなければなりません。これからも、そのことを意識してささげましょう。

愛を意識しながら

どれだけの額をささげたかを他の人と比較し、誇ったり、逆に引け目に感じたりするようなことがあってはなりません。そのようなことは、自分を良く見せようとする思いから出ており、愛から出てはいません。

これからささげるこのお金は、神さまや他の誰かに喜んでいただくための道具。そういう思いでささげましょう。

そして、そういう思いでささげることが、次のポイントにつながります。

2.喜んでささげること

喜んでささげたマケドニヤのクリスチャン

6節でパウロはこう書いています。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」

これを表面的に読むと、多額の献金をすると、大いに祝福されるけれど、少ない額しか献金しなかったらあまり祝福されないという意味に解釈できます。なんだ、結局額が大事なんですね、ああそうですか……。

いいえ! 神さまが献金額にこだわらないのは、イエスさまご自身が証言しておられます。イエスさまが神殿におられたとき、お金持ちたちが貧しい人をサポートするための献金箱に大金を投げ入れていました。そこに、たった2レプタ(100円くらい)をささげた未亡人がいましたが、イエスさまはその心をご覧になり、「彼女が最もたくさんささげた」と評価なさいました(マルコ12:41-44)。

パウロも6節に続けてこう書いています。「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」(7節)。ですから、6節の「少しだけ」という言葉は、7節の「いやいやながら」「強いられて」と同じ意味だと解釈することができます。

パウロがマケドニヤのクリスチャンたちを高く評価しているのは、たくさんささげたからではありません。彼らが自発的に、しかも喜んでささげたからです。それをわざわざ書いているということは、コリント教会には、マケドニヤで献金を集めているから自分たちもしなければとか、パウロ先生に言われたから断れなくてとかいうような義務感で、渋々献金に協力しようとしている人たちが多かったのでしょう。

誤解してはいけないことは、神さまは貧乏ではないということです。私たちがお金を都合してあげないと何もできないようなお方ではありません。神さまがクリスチャンに献金や奉仕をお求めになるのは、神さまご自身が愛に満ちたお方であり、私たちも神さまと共に愛のわざに参加するためです。

マケドニヤのクリスチャンたちは、献金を通してエルサレムの人たちへの愛を表現できることを喜びました。それは、愛である神さまと共に働くことができるから、すなわちますます神さまを近くに感じることができるようになるからです(9節)。

痛みは感じていい

ですから、もしささげるのが喜びでないのなら、そんな献金などしなくてかまいません。神さまにとって大切な子どもである私たちが、本当は嫌なのにしぶしぶささげているのを見るとしたら、神さまはとても悲しまれることでしょうから。

ただし、ささげるときに痛みを感じること自体は問題ありません。ささげるのが百円玉1つであれ、1万円札1枚であれ、1万円札1億枚であれ、あなたにとっては痛みを伴う犠牲でしょう。犠牲を払うときに痛みを感じることは、ここでパウロが言っている「いやいやささげること」とは違います。

人としてのイエスさまは、私たちの模範です。イエスさまは、愛の模範も示してくださいました。イエスさまはどうして地上に来られたのでしょうか。それは、私たちの罪を赦し、神さまとの親しい交わりを回復させるためです。そのために、イエスさまは大きな犠牲を払ってくださいました。ご自分の命を、私たちの身代わりとして、ささげてくださったのです。それは私たちへの愛に基づいています。

では、イエスさまは十字架で痛みを感じなかったのでしょうか。もちろん体にも心にも魂にも、激しい痛みをお感じになりました。しかし、それでもイエスさまは自発的に命をお捨てになりました。それは、痛みの先にある喜び、私たちが救われて神さまとの交わりを回復することの喜びを感じておられたからです。

喜んでささげるときに起こる奇跡

さらに聖書は、私たちが神さまと共に喜んで愛を実践することを始めようとするなら、神さまは私たちがさらに質・量共に豊かに愛することができるように助けてくださると教えています。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」(8節)

これは、「たくさん献金すれば、商売繁盛で豊かな生活ができるようになる。貧しいのはささげ方が足りないからだ」というような、繁栄の神学とは違います。

マザー・テレサのことを考えてみましょう。マザーの働きは、コルカタの町の道ばたに、誰にもケアされずにゴミのようにうち捨てられている一人の人を看病し、その最期を看取ったことから始まりました。マザーは、死にゆくその人に仕えることが、イエスさまに仕えることだと思い、喜びを感じました。

すると、神さまは次々と見捨てられた人たちをマザーに出会わせてくださり、彼女が彼らのために忙しく働くことができるようにしてくださいました。こうして、イエスさまにお仕えする喜びは、ますます豊かに増し加えられていきます。

もちろん一人では限界があります。神さまは協力者も次々と加えてくださり、「イエスさまにお仕えする喜び」を他の人と分かち合う喜びも与えてくださいました。そして、その働きは世界中に広がっていき、マザーが亡くなった今も続いています。

たくさん献金したらお金が儲かるというような、そんなちんけな話ではありません。喜んで愛する人には、神さまはもっともっと愛する喜びを味わうことができるように、能力を与え、やる気や根気を引き出し、環境を整えてくださるということです。

皆さんも、そのような奇跡を味わってこられたことでしょう。ますますこの教会が、愛の奇跡に満ちあふれますように。

まとめ

愛の実践が目的だということを意識し、喜んでささげましょう。

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