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コリント人への第二の手紙13章11〜13節

(2014.10.19)

参考資料

11節の「喜びなさい」は、「さようなら」と訳すこともできる言葉です。だとしても、10章以降の内容が厳しい叱責の調子だったので、それを和らげる意味もあったことでしょう。

聖書からのメッセージ

イントロ

コリント人への第二の手紙の最後のあいさつです。特に13節は、私を含む多くの牧師が礼拝最後の祝祷に用いています。この祈りには、私たちクリスチャンの信仰の土台となる3つの大切な要素が含まれています。

1.主イエス・キリストの恵み

恵みとは

恵みとは、祝福が、代価を求められることなく一方的に与えられることを指しています。代価とは、たとえば、
  • 神の命令を守ること
  • 決められた儀式に参加すること
  • 決められた修行をすること
  • 決められた額の献金をすること
などです。神さまは、私たちにそのような代価を要求せず、ただで祝福してくださいました。

しかし、そんなうまい話があるのでしょうか。本当に代価は必要ないのでしょうか。実は祝福の代価は私たち以外の人が払ってくださっています。ですから、私たちが支払う必要がないのです。パウロは、「主イエス・キリストの恵み」と言いました。私たちの代わりに代価を支払ってくださったのは、イエス・キリストです。

イエスさまは、本来私たちが償わなければならない罪の罰を、全部背負って死んでくださいました。そこで、私たちはそのままの姿で神さまに赦され、受け入れられ、神さまの子どもにしていただき、大いに祝福される身分となりました。

出来高制の信仰からの脱却

私たちは、神さまの祝福が恵みによって与えられるということを忘れないことが大切です。そうでないと、信仰生活が出来高制になってしまいます。

この世は、出来高制の原則で動いています。すなわち、「成果によって評価される」世界だということです。もちろん、成果主義や競争原理自体は決して悪いものではありません。学業でもスポーツでも経済でも、互いに競争して切磋琢磨することによって、ますます成長・向上するということがあるからです。

ただし、成績や結果によって、「人間としての存在価値」まで計られてしまうとしたら、それは問題でしょう。他の人と比較して、敗北したり、平均点以下だったりしたら価値がない、そう思い込まされているならば、私たちは自分や他人の成果に振り回されることになります。そして、周りの人たちがみんな自分と競争するライバルになってしまいます。

私は日本中のクリスチャンの方からメールをいただきます。そして、多くの方から「教会に行くと疲れる」「教会に行くと惨めな気持ちになる」という相談を受けます。イエスさまは、「重荷を負っている人は休ませてあげよう」とおっしゃったはずなのに、どうしてイエスさまのからだである教会の交わりの中で、疲れ切ってしまうのでしょう。

それは、出来高制の原則が教会の中に、そしてクリスチャンの心の中に忍び込んでしまっているからではないでしょうか。
  • 何人に伝道したか
  • 何時間祈っているか
  • どれだけ聖書を通読したか
  • どれだけ献金したか
  • どれだけ大きな声で「ハレルヤ!」と叫んだか
  • どれだけ元気でうれしそうに振る舞っているか……
もちろん、それらは大切なことですが、そういったことについて他の人と比較をし、競争するとしたら、信仰生活はとたんに疲れるものになってしまいます。

10:12でパウロはこんなことを言っています。「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」

恵みがあなたがたとともにありますように

すばらしい働きをしている人を見て、参考にしたり励みにしたりするのはすばらしいことです。しかし、自分を惨めにしたり、傲慢になったりするために他人と比較するのはもうやめましょう。

私たちの心に、主イエス・キリストの恵みがますます浸透しますように。

2.神の愛

全知全能の神があなたを愛しているという祝福

恵みは神さまの祝福が、ただで注がれているということだと申し上げました。どんな祝福でしょうか。それは、あなたが神さまに愛されているということです。

聖書によれば、神さまは全知全能です。何でも知っておられる賢い方であり、何でもすることができる奇跡の神です。その神さまが、あなたを愛しておられると聖書は言います。しかも、あなたを子どもとして愛していると言われています。

親が子どもをどんなに心配し、大切に思い、その幸せを願っているか考えてみてください。親は子どもの幸せのために、知恵を尽くし力を尽くします。私たちの天の父なる神さまは、私たちの本当の幸せのために、ご自身が持っておられるあらゆる知恵や力を使ってくださいます。

それは私たちにとってどんなに大きな安心でしょうか。私たちは世界に起る問題のすべてを見通すことはできません。突然の出来事に右往左往してしまうこともあります。しかし、神さまは時間を超越しておられますから、神さまにとって突然のアクシデントというものはありません。ちゃんと神さまはその問題をご存じであり、対処法もご存じです。さらに、神さまに不可能はありませんから、その問題が私たちを不幸にしないように介入してくださるばかりか、かえって益になるようにしてくださいます。

イエスさまはおっしゃいました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(マタイ6:31-32)

全知全能の神さまに愛されていることをいつも思い起こし、平安を得ましょう。

心の親の切り替え

先ほど、「親が子どもをどんなに心配し、大切に思い、その幸せを願っているか考えてみてください」と申し上げました。以前、同じようなフレーズを語ったら、ネットでメッセージを読んだ人から「うちの親はそうじゃなかった」とメールをいただきました。

確かに、この地上の親の中には、あまり子どもを顧みない、自分自身が子どものような人もいます。あなたのお父さんやお母さんは、人の親としては精神的に幼すぎたかも知れません。その結果、虐待を受けたり、無視されたり、暴言を吐かれたり、嫌みを言われたりしたかも知れません。そして、自分が大切な存在だという確信を奪われ、自信を十分育てられず、いろいろな生きづらさを抱え込んでしまったかも知れません。

しかし、聖書が教える父なる神さまは、完全で慈しみに満ちたお方です。全知全能の神さまは、あなたを決して馬鹿にしないし、いじめないし、気分次第で約束をころころ変えたりしないし、無視したりしません。

両親を憎んだり捨てたりする必要はありませんが(というか、そんなことをしてはいけませんが)、心の中の親イメージを聖書の父なる神イメージに切り替えましょう。

肉の親に言われてきた否定的な言葉の代わりに、父なる神さまの愛に満ちた言葉を思い巡らせましょう。肉の親にされてきた心ない行動の代わりに、父なる神さまの知恵に満ちた行動を思い巡らせましょう。きっと、それがあなたをいやし、育み、強くします。

3.聖霊の交わり

神との交わり

ここで「聖霊の交わり」と訳されている言葉は「聖霊による交わり」という意味です。これは、2つの側面を含んでいます。1つは、神さまとの交わりです。

聖書が教える救いとは、イエスさまの恵みのみわざにより、私たちの罪が赦され、神さまの子どもになったということです。神さまの子どもとなった私たちは、先ほど触れたように神さまと愛の交わりを回復し、様々な祝福をいただくことができるようになりました。

その救いは、イエス・キリストの恵みのみわざを信じる信仰によって私たちのものとなります。しかも、信じることもまた、聖霊なる神さまのお働きによります。聖霊さまが与えてくださる神さまとの愛の交わりを、私たちはもっともっと深く味わいましょう。

教会の交わり

もう一つの側面は、教会の交わりです。イエス・キリストを信じ、神さまとの愛の交わりを体験している私たちクリスチャン同士の交わりです。教会がこの世に対して愛のわざを行なうためには、まず教会員同士が愛し合い、認め合い、励まし合い、支え合い、祈り合う必要があります。

ところが、コリント教会は、分派分裂があって、仲違いをしていました。また、パウロに対して批判的な人たちもいました。そこで、パウロはそれを悲しみ、今回のあいさつの箇所でも「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」「聖なる口づけを持って、互いにあいさつをかわしなさい」と勧めています。

「愛は知ることから始まる」と言った人がいます。私たちはどれだけ教会の他の人のことを知っているでしょうか。今年から、礼拝の最後に、2,3人ずつに分かれて交わりと祈りの時間を持つようにしています。聖書のメッセージを聞いての感想を分かち合うと共に、それぞれの祈りのリクエストを出し、祈ります。そこで祈ったことは、1週間毎日祈ることになっています。これを始めてから、私たちの生活の中に、多くのすばらしいことが起るようになってきた思います。ますます続けていきたいですね。

車輪の両軸

私たちに他の人を愛する力を与えてくださるのは神さまです。そこで、パウロは11節で互いに愛し合うように勧める中で、「慰めを受けなさい」とも語っています。

慰めはどこから来るのでしょうか。「私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が」(第2テサロニケ2:16)と呼ばれている神さまが、私たちを慰めてくださいます。慰めとは、神さまの救い、神さまの愛に他なりません。

私たちが神さまとの交わりを豊かにし、神さまの愛を深く味わうとき、同じように神さまとの交わりとその愛を味わっている他のクリスチャンとも豊かに交わり、愛し合うようになります。

そして、聖書は同じ11節で、「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」と勧めた後に、「そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」と約束しています。私たちが互いに愛し合うことで、神さまとの関係もますます近くなるということです。

私たちが神さまと愛の交わりを深めることと、互いに愛し合うこととは、それぞれ独立したことではなく、車輪の両軸のように関連しているということですね。

まとめ

今回学んだこと、すなわち三位一体の神さまとの交わりを、もっともっと体験できるように祈りましょう。

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