神への正しい恐れ

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マラキ書3章8〜18節

(2014.11.9)

参考資料

15節の「神を試みる」とは、神さまの愛と恵みがどこまで続くか試すこと、すなわち神さまの正義を軽んじて、反逆を続けることです。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回のテーマは「ささげ物」です。現代の日本人クリスチャンである私たちに、聖書はどんなささげ物を求めているのでしょうか。

1.受け入れられなかったささげ物

十分の一のささげ物

今回の箇所は、モーセの律法の時代に、イスラエルの人々が収穫の十分の一を神さまにささげることが求められていたということが背景になっています。

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない」(申命14:22)

こうしてささげられた十分の一のささげ物は、神殿で働くレビ族の人たちや、孤児や未亡人など生活の糧を持たない人たちに与えられ、その生活を支えました。いわば、福祉目的税ですね。

「あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、【主】が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである」(申命14:29)

ところが、マラキの時代にはこの定めが守られていませんでした。レビ人や社会的弱者ピンチ! そこで神さまがちゃんと決まりを守るようお命じになったというわけです。

教会のクリスチャンと十分の一

なお、多くの教会では、今でも収入の十分の一を献金すべきだと教え(いわゆる什一献金)、その根拠としてこの箇所を引用します。さらに「わたしをためしてみよ」という言葉を指し示して、十分の一献金をしっかりすれば、経済的に大いに祝福されるなどと教えたりします。

しかし、イエス・キリストが十字架にかかって罪の贖いをしてくださった現代は、モーセの律法は無効になりました(ローマ10:4)。おまけに、そもそもモーセの律法はイスラエルに与えられたもので、私たち日本人のクリスチャンは、二重の意味でモーセの律法に縛られていません。

じゃあ、今の私たちは何を生き方の基準にすればいいのでしょう。イエスさまとその使徒たちを通して与えられた、恵みの時代の律法、キリストの律法(第1コリント9:21)に従うよう定められています。具体的には新約聖書の教えの多くです(ただし福音書のほとんどは、まだモーセの律法が生きていた時代の話ですが)。

その新約聖書の中に、什一献金の教えはありません。では、新約聖書が何を教えているかについては、後々お話しするとして、マラキに話を戻しましょう。

不完全なささげ物

イスラエルが礼拝の際にささげる動物犠牲やささげ物は、最上のものでなければなりませんでした。ところが、マラキ時代のイスラエル人たちは、体に傷があったり病気があったりして、要するに手元に置いておいても畑仕事に使えなかったり、売り物にならなかったりするような、いわば手放しても惜しくない動物をささげていたようです。

「あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。──万軍の【主】は仰せられる──」(1:7-8)

人間である王さまや社長に、そんなものを贈ったらどう思われ、どういう扱いを受けることになるか考えてみよ、と神さまはおっしゃいます。人間的に見ても、それほどひどいささげ物だったということですね。

神さまにしてみれば、イスラエル人のささげ物をする態度を見ると、とても自分を重んじてくれている、自分を愛してくれている、自分に一生懸命従おうとしてくれているとは思えませんでした。十分の一の規定が守られていないのも、結局のところ、彼らが神さまを軽く見ているからだったのです。

それが「神を試みる」ということです。神を試みるとは、あの偉大で慈愛に満ちた神さまを尊敬せず、畏怖の念を抱かず、愛さず、逆に軽く見、ついでのように軽く扱うということです。

マラキ書は、現代の私たちに什一献金を守るよう教えてはいません。マラキ書が今の私たちに教えているのは、私たちが神さまを心から尊敬し、重んじ、愛し、お仕えすることです。

2.神を正しく恐れよう

神を恐れる

聖書は、あちこちで神さまを「恐れる」べきだと教えています。それは、かつて罪を犯したアダムが神さまの声を聞いて隠れたような、さばきを恐れてビクビクした態度を取るということではありません。神さまは私たちの罪を赦し、私たちと親子の交わりをしたいと願っておられます。子どもの名前を呼ぶたびにビクッとされたら、親としては悲しい限りですね。

神さまを恐れるとは、神さまを心から尊敬し、重んじ、愛し、お仕えすることです。

私たちは、神さまに対して正しい恐れ方をしなければなりません。イエスさまが命をかけてあなたの罪を赦してくださったのに、それを信じないでいつまでも罪責感に浸っていたり、神さまに遠慮し続けたりするのは、かえって神さまを恐れない生き方です。お分かりですね?

みこころにかなう生き方への情熱

もし神さまを正しく恐れる生き方をするならば、当然のことながら、
  • 神さまが喜ばれることが何で、悲しまれることが何なのかを、具体的に、そして熱心に学ぼうとするでしょう。
  • 神さまが喜ばれることを、どんな犠牲を払ってでも行ないたいと強く願うことでしょう。そして、一生懸命それを実践しようとすることでしょう。
  • 逆に神さまが悲しまれることは、どんなにこの世の中で得だとされていることでも、きっぱりと離れることでしょう。
実は、このような生き方をすることが、現代のキリストの律法で求められているささげ物です。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)。

今の時代はモーセの律法が無効になったから、収入の十分の一をささげる必要がなくなって楽でいいやなどと思ったとしたらとんでもない。現代のキリストの律法では、あなたの体も命も人生も、一切合切神さまにささげ、神さまのために使うように求められているのですから。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(第1コリント10:31)

さらなる正しい恐れ

とにかく、神さまのみこころを学び、それを一生懸命に実践しようとすることが、礼拝、ささげ物の基本です。そして、そのような生き方をしようとすると、私たちは自分の不完全さや、不純さをいろんな形で思い知らされることになります。がっかりしたり、落ち込んだりするかも知れません。

しかし、だからこそ、私たちはイエスさまの十字架による赦しを感謝するようになります。父なる神さまの子どもにしていただいたということがありがたく思えます。聖霊さまに助けていただかなければクリスチャンとして生きていくことはできないということを知ります。そして、ますます神さまに対する正しい恐れが拡大していきます。

ささげ物についてこんな教えもあります。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」(第2コリント9:7)

パウロはその具体例として、貧しいマケドニアの諸教会の人たちが、もっと貧しいエルサレムのクリスチャンに義援金を贈ったことを挙げています。しかも、パウロに命令されて渋々ささげたのではなく、自発的に喜んでそうしました。彼らにそのようなささげ方ができたのは、自分たちを救ってくださった神さまを愛し、まず人生のすべてをささげていたからです。

神さまを正しく恐れる者たちに対して与えられる約束を、もう一度読みましょう。

16 そのとき、【主】を恐れる者たちが、互いに語り合った。【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

まとめ

神さまを正しく恐れ、みこころにかなう生き方を熱心に実践しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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