神にささげられた子ども

トップページ聖書のメッセージ集2014年 > このページ


第1サムエル記1章1〜20節

(2014.11.16)

参考資料

1節のエフライムは、イスラエル12部族の一つエフライム族に割り当てられた地域で、新約時代で言うとサマリヤ地方の南半分。ラマタイム・ツォフィムの場所は諸説あります。1:19のラマも同じ町。

3節のシロは、エフライムの北の方にあった町で、この時代の政治的・宗教的な中心地です。出エジプト時代には移動していた会見の天幕(幕屋)が、この時代はシロに安置されていました。

11節の「頭にかみそりを当てない」というのは、生まれてきた子を一生涯ナジル人にするということです。
ナジル人とは、親や自分自身の願いのために神さまに誓願(神さまが自分の願いを聞き届けてくださった時、ある事をすると約束すること)をささげた人で、その誓願の期間中は、酒、酢、ブドウから取れた食物や飲み物を飲食せず、死体に近づかない他、髪の毛を剃ったり切ったりしないという定めがありました。
一般的には自分の意志で、そして期間を定めてナジル人になりましたが(たとえば使徒18:18のパウロ)、預言者サムエルや士師サムソンのように、親の誓願によって、生まれた時から一生涯ナジル人として生きる人もいました。

20節で付けられた「サムエル」という名には、「神の御名」という意味があります。

聖書からのメッセージ

イントロ

ダビデに油を注いで王に任命した預言者サムエルの、誕生の場面です。私たちも、誰かの子どもとしてこの地上に誕生しました。また子を持つ親だという方もいらっしゃることでしょう。今日は児童祝福式を行ないます。神さまが、子どもたちの、そして誰かの子どもであるあなたの命をどのようにとらえていらっしゃるのかを学びましょう。

1.望まれて生まれた存在

不妊の悩みと祈り

エルカナにはハンナという妻がありましたが、子が生まれませんでした。そこで当時の風習に従って2人目の妻を持ったようです。2人目の妻であったペニンナは子どもを何人も産みました。

今でも不妊に悩む夫婦がたくさんあり、何とかして子どもを授かるようにと、たくさんの費用と時間を掛け、痛みなどの苦労に耐えながら治療を続けておられます。現代でも子どもが与えられないことは大変な痛みととらえる方々がいらっしゃいますが、古代社会においては、子どもが生まれないというのは、今の私たちには想像もできないほどに恥ずかしいこととして考えられていました。

今日の箇所を呼んで分かる通り、ハンナは非常に信仰深い女性でしたし、エルカナも心優しく、また敬虔な人でした。子どもが与えられるかどうかはその夫婦の信仰深さや性格の善し悪しとは関係がありません。しかし、当時の多くの人々が、不妊は神さまからの呪いだと考えていたのです。

おまけにハンナは、子を産むことができたペニンナから様々な嫌がらせを受けていました。ハンナの焦りや悲しみはいかばかりだったでしょう。その悲しみは、エルカナの優しい言葉かけでもいやすことができないほどでした。

礼拝のためにシロに上ったハンナは、一人神さまの前で祈り、誓願を立てました。「もし自分に男の子を授けてくださったなら、私はその子の一生をあなたにおささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません」と。

誓願とは、神さまが自分の願いを聞き届けてくださった場合に、ある事をしますと約束することです。ハンナがささげた願いは男の子を産ませて欲しいということ、そして誓いは、参考資料に書かせていただいたように、その子を生涯のナジル人にするということです。これについては、第2のポイントで触れましょう。

ハンナは黙って祈っていましたが、大祭司エリは彼女が酔っ払っていると誤解してしまいました。それだけハンナの悩みが深く、一心不乱に祈っていたためでしょう。

ハンナの願いは、かなえられてもかなえられなくても、どっちでもいいやという問題ではありませんでした。だから必死に祈りました。私たちには、それほどまでの切なる願いがあるでしょうか。私たちが最近、心の底から何かの実現を願い、酔っ払っていると誤解されるほどに心を注ぎ出して祈ったのはいつでしょうか。

神への信頼

誤解を解いた大祭司エリは、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と言いました。すると、ハンナは心晴れ晴れとなり、表情もすっかり変わってしまいます。

とはいえ、この時点では、まだハンナは妊娠していません。大祭司が祝福してくれたとはいえ、彼は必ず神が願いを聞いてくださると保証したわけではありません。仮に保証してくれたとしても、それは人間の言葉であって、本当に神さまが自分の願いを聞いて妊娠させてくださるかどうかは分かりません。

先ほども申し上げましたが、夫婦に子どもが与えられるかどうかということと、その人たちの信仰深さとは関係がありません。非常に信仰深い夫婦が、ハンナのように酔っ払っていると思われるほど真剣に、必死に祈っても、結局生涯子どもが与えられなかったという例は、非常にたくさんあります。ハンナの場合もそうかもしれませんでした。

それでも、ハンナは平安を感じました。もう、子どもがいないことをくよくよと悩んだり、ペニンナの嫌みな言動に振り回されたりすることもなくなりました。なぜなのでしょうか。

神さまは私たちの奴隷ではありません。残念ながら、私たちの祈りが、いつもいつも祈った通りの内容で、祈った通りの時期にかなうとは限りません。親が子どもの願いを100%その通りかなえることがないように、神さまは私たちの願いに対して「ダメ」とおっしゃることもあります。しかし、親は子どもの最善を願い、最も良いものを最も効果的な時に与えようとします。たとえ子どもの願いがそのまま叶えられなくても、もっとすばらしいことをしようとします。

確かに、ハンナに子どもを与えてくださるかどうかを決める主権は神さまにありました。しかし、その神さまが自分に好意を持ってくださり、自分の人生を間違いない方向に導いてくださることを彼女は信じました。だから平安を得たのです。

私たちがハンナから学ぶべき模範。それは、神さまは自分を愛し、自分に最善以外のことを決してなさらないということを信頼することです。

神に望まれたいのち

こうして、後の預言者サムエルは誕生しました。すなわち、母ハンナだけでなく、神さまもサムエルの誕生を望まれたということです。

あなたの場合もそうです。あなたがこの地上に生まれたということは、神さまがそれを望まれたということです。あなたの誕生の事情がどうであったとしてもです。

あなたはご両親が祈って祈って、待ち望んで待ち望んで、その結果生まれたのかも知れません。しかし、そうではないケースだったかも知れません。たとえば、道ならぬ恋の結果として受胎し、親にとってはうれしいというよりも重荷だと思われてきたのかも知れません。あるいは、親は男の子が欲しかったのに女の子が生まれて(あるいはその逆で)、がっかりしたかも知れません。成長の過程で親が自分の存在を喜んでくれているとは、とても思えないようなひどい扱いを受けてきたかも知れません。

それでも、です。あなたがお母さんのおなかに受胎し、こうして地上に生まれてきたというのは、神さまがあなたをこの地上に生み出したいと願われたからです。あなたは望まれて生まれてきた子どもです。この世に、望まれないで生まれた子どもは誰一人としていません。人が何を言おうとも!

あなたは神さまにとって大切な宝物です。だから、自分を粗末にしてはいけません。自分を馬鹿にしてはいけません。自分を呪ってはいけません。自分を大切にしましょう。体をより健康にするように努めましょう。心が健康でいられるような工夫をしましょう。そして、神さまに愛され、大切にされていることを、いつも自分に言い聞かせましょう。

また、他の人、特に自分の子どもに対して、その人やその子が神さまに望まれて生を受けた、宝物のような大切な存在なのだということを、言葉や表情や行動で示していきましょう。どんな言葉かけをすればそれを伝えられますか? どんな表情をすれば伝わりますか? どんな行動をして差し上げればいいですか?

2.神にささげられた人生

私たちも人生をささげよう

サムエルは、ハンナの誓願の結果誕生しましたので、一生涯をナジル人として生きました。ナジル人については、参考資料をご覧ください。

ハンナがサムエルをナジル人にしたのは、サムエルの生涯を神さまにささげるためでした(11節)。人生を神さまにささげるとは、フルタイムで神さまの働きをするということです。実際、成長したサムエルは家を出て、大祭司エリの元で住み込みとなり、祭司の仕事を学び始めました。

第1のポイントで、私たちもサムエル同様、神さまに望まれてこの世に生を受けたと学びました。神さまがあなたをこの世に存在させ、今も生かしてくださっているということは、あなたがここに生きているのには意味があって、あなたには地上でなすべき使命が与えられているということです。

であれば、私たちもサムエルのように生涯を神さまにおささげすべきだし、自分の子どもたちを神さまにおささげすべきでしょう。

WWJD?

では、クリスチャン全員が牧師や宣教師になることを求められているのでしょうか。いいえ、そうではありません。モーセの律法の元では、祭司は、その家系に生まれた決められた人だけがなれました。しかし、イエス・キリストの十字架と復活以降は、すべてのクリスチャンが祭司であり、人々のために直接神さまに祈ることができます。

「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である」(黙示1:5-6)

聖霊なる神さまは、私たち教会のクリスチャンに様々な賜物を与え、様々な方法で神さまの働きをするようにしてくださいました(第1コリント12章など)。目と手には違う能力が与えられており、違う働き方をします。しかし、目と手は協力して働きます。私たち教会(に集うクリスチャン)も同じです。

教会はキリストの体にたとえられています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(第1コリント12:27)。私たちが人生を神さまにささげるというのは、私たちがキリストの体の一部として行動するということです。

WWJD?」という標語をお聞きになったことがあるでしょうか。よくキリスト教関係の企業が作るアクセサリーやステッカーなどに書かれています。これは「What Would Jesus Do?」(イエスさまだったらどうするだろうか)の略です。

私たちがキリストの体の一部として行動するとは、毎日毎日、一瞬一瞬、「イエスさまだったら、この人にどんな言葉をかけるだろうか」「イエスさまだったら、どんな表情でこの人と話をするだろうか」「イエスさまだったら、ここでどういう行動を取るだろうか」と考えて行動を選ぶということです。

もちろん、イエスさまのことをよく知らなかったら、WWJDは成り立ちません。普段から聖書に親しみ、集会や交わりを大切にして、イエスさまのご性質やみこころについて学び続けましょう。

子どもたちの人生もささげよう

そして、お子さんのいらっしゃる方は、子どもたちの人生を神さまにささげましょう。また、親以外の教会員も、教会の子どもたちは神さまにささげられていることを意識して接しましょう。

すなわち、
  • 私たちがイエスさまについて学ぶように、子どもたちにもイエスさまのことを教えなければなりません。
  • 私たちがWWJDをいつも実践するように、子どもたちにもそうさせるようしつけなければなりません。
  • もちろん、言葉だけでは伝わりません(子どもたちは大人が何を言っているかではなく、何をしているかの方により影響を受けます)。私たち自身が模範を示し、背中で示すこともしなければなりません。
親や他の教会員がその決意を確認するのが、誕生直後に行なう献児式の意味であり、毎年この時期に行なっている児童祝福式の意味です。

まとめ

自分の人生を神さまにささげ、子どもたちの人生を神さまにささげましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2014 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.