ハンナの賛美

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第1サムエル記2章1〜10節

(2014.11.23)

参考資料

1節、10節の「角」は力の象徴。「角が上げられる」というのは、この場合は「神さまから力が与えられる」というような意味(詩篇75:4では否定的に用いられていて、「自分の力を誇って傲慢になる」という意味)。

聖書からのメッセージ

イントロ

不妊の女性だったハンナは、神さまに心を注ぎだして祈り、ついに念願の息子サムエルを産むことができました。サムエルが乳離れして(3歳ほど?)、誓願通りに祭司エリの元に連れてきたハンナは、聖霊に満たされて賛美をささげます。

私たちの信仰生活が力強いものになるか、それとも弱々しいものになるか、あるいはきよいものになるか、それとも世の人々と特に変わらないものになるかは、私たちが神さまのことをどれだけ知り、それを信じるかにかかっています。そして、日々の聖書の学びや週ごとの礼拝は、私たちに神さまがどのような方かを教え、再確認させてくれます。

今日は、ハンナの賛美の祈りを通して、私たちにとって神さまがどんな方であるかを学びましょう。

1.逆転勝利を与える神

神の救い

まずハンナは、神さまが自分を救ってくださったことを大いに喜び、感謝しています(1節)。

確かに、不妊に悩んでいたハンナにとって、子どもが与えられたというのは天にも昇るような喜びだったことでしょう。ただ、それを「救い」と表現するのは、少々大げさなようにも思えます。しかし、ここにはイスラエル特有の事情が絡んでいます。

神さまは、イスラエル人の先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれました。その契約の中に、アブラハム、イサク、ヤコブとその子孫に、現在のパレスチナ地方を中心としたカナンに土地が与えられるという約束があります(創世記13:14-17など)。

そこで、カナンの地に土地を持ち、そこに住むというのは、イスラエル人にとっては神さまの救いと切っても切れない関係にありました。子ども、特に跡継ぎとなる男の子を産むことができないというのは、イスラエルの女性にとって大変なプレッシャーであり、屈辱でした。

そのようなわけで、なかなか子どもを産むことができなかったハンナは、夫エルカナに非常に愛されていたにも関わらず、苦しんでいました。そして、ついに子どもを産むことができたというのは、まさに救いと表現できる出来事だったのです。

逆転させる神

それからハンナは、私たちに救いを与えてくださる神さまが、逆転勝利の神だと歌います(4-8節)。

ハンナは夫エルカナにとても愛されていましたが、既に見たように、その結婚生活は焦りと悲しみに満ちたものでした。しかも、子どもを何人も産んだもう一人の妻ペニンナから、様々な嫌がらせを受けていました。どれほど悔しくて悲しくて苦しかったことでしょうか。しかし、そんなハンナに、神さまは逆転勝利を与えてくださいました。

私たちは有限の存在であって、先の先まで見通すことはなかなかできません。もっぱら今起っていることに心を奪われてしまいます。そして、その時々に起る出来事のせいで一喜一憂し、あるいは他人と比較して誇らしく思ったり落ち込んだりします。

しかし、ハンナの祈りは、そんなことは意味がないことを教えてくれます。もうダメだと思えるようなつらい状況にいたとしても、あるいは何年も状況が変わらず、自分の人生こんなもんだと安値安定の気分に陥りそうになっていたとしても、人生には逆転勝利の可能性があることを、いつも私たちは忘れないでいたいと思います。

あなたは今どんな状況にいますか? そして、神さまがあなたに逆転勝利を与えてくださる方だと信じますか? 逆転勝利を与えてくださる全知全能の神さまに、あなたは何を望みますか?

謙遜の勧め

さて、神さまは弱い者に力を与えることがおできになりますが、勇士の弓を砕くこともできるお方でもあります。今、下にいると思っている人が引き上げられ、逆に上にいると思っている人が引き下げられることがあるということです。

ですから、ハンナは私たちに謙遜であるようにと勧めます。

「高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは確かです」(3節)

「主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません」(9節)

イエスさまの弟ヤコブもこう教えています。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう』。ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです」(ヤコブ4:13-16)

だからといって、いつ神さまに引き下げられるかとビクビクする必要はありませんし、そんなことをしてはいけません。神さまは私たちを愛していらっしゃいます。ですから、同じヤコブがこうも教えています。

「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』」(ヤコブ4:6)

うまくいっているときは神さまに感謝し、うまくいっていないときもふてくされたり絶望したりしないで、神さまからの逆転勝利を待ち望む。そんな揺れ動かない生き方ができるといいですね。

2.救い主を与える神

大げさな賛美

それにしても、ハンナの祈りは大げさです。確かに、彼女はペニンナからの嫌がらせに苦しみました。ですから、「不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます」(5節)と祈るのは分かります。が、「私の口は敵に向かって大きく開きます」(1節)というのは、ちょっと言い過ぎじゃないでしょうか。

さらには、エルカナ一家の中の問題に留まらず、地の柱とか世界を据えたとか(8節)、地の果て果てまでさばくとか(10節)、何だか大げさな話になっていますね。

実は、ハンナの賛美を導かれたのは神さまの霊、聖霊さまです。彼女は自分自身の体験や信仰を歌っただけではなく、聖霊さまに導かれて預言的な内容を口にしました。

この賛美は、「主に油そそがれた者」についての言及で終わります。「【主】は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます」(10節)

「王」「主に油そそがれた者」というのは、神さまがやがて地上に送ると約束された救い主のことを指しています。イスラエルの王や祭司は、任職される際に油を頭に注がれました。「油そそがれた者」はヘブル語でマーシアハ、すなわちメシヤです(ギリシャ語のクリストス、すなわちキリストも同じ意味)。メシヤ(キリスト)は、やがて救い主を指す意味となりました。

救い主到来の預言

アダムとエバが罪を犯した時、神さまは彼らに罪ののろいが降りかかると宣告されると同時に、罪ののろいから解放されるという約束もなさいました。神さまは蛇に化けたサタンにこう宣告しています。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)

この時点ではまだ情報が限られていますが、とにかく「女の子孫」、すなわち人間の女性が産む人物(男性)が、傷を負わされながらもサタンを滅ぼすということが約束されました。そして、旧約聖書の歴史が進んで行くに従って、神さまは様々な方法でこの「女の子孫」に関する情報を付け加えてくださいました。

そして、新約聖書の時代に至り、この「女の子孫」、そして歴代の預言者たちが預言してきた救い主は、ナザレのイエスだったのだということが分かります。

イエスさまの母マリヤが、親戚のエリサベツを訪問した際、マグニフィカトと呼ばれている賛美を歌います。その内容は今回のハンナの賛美ととてもよく似ています(ルカ1:46-55)。マリヤもまた、聖霊さまに導かれ、救い主の誕生を歌ったのです。

すべてに決着を付ける救い主

とすると、今回のハンナの賛美は、単にペニンナに対する逆転勝利を歌ってものではないということになります。1節の「口を敵に向かって開く」というのも、単に自分が子どもを産んで、ペニンナに向かって「見たか、へへーんだ!」と勝ち誇るという意味ではないわけです。これは世の終わりに起こる逆転勝利を歌ったものです。

逆転勝利なんていっても、場合によっては、私たちが生きている間には目立った状況の変化は見られないということもあるでしょう。しかし、世の終わりの時に、神さまはすべてに決着を付けてくださり、あなたに逆転勝利を必ず味わわせてくださいます。

聖書によれば、やがて(その時期は明確にされていませんが)イエスさまは地上に帰ってこられます。これは「再臨」と呼ばれています。再臨のイエスさまは、「王」(10節)として来られます。そして、世界中の悪を滅ぼし、信じる者を復活させ、永遠に神の国に住まわせてくださいます。

本当だったら、私も再臨の時に滅ぼされてしまうはずです。私の中には確かに悪があるからです。「これくらいいいじゃないの」というのは、完全できよい神さまには通用しません。もしも行ないによって救われようとするなら、完璧でなければならないのです。仮にこれから完璧に生きることができたとしても(そんなことは無理ですが)、過去やってしまったことはもう取り返しが付きません。「まことに人は、おのれの力によっては勝てません」(9節)と書かれている通りです。

しかし、そんな私たちには救いの道が用意されています。イエス・キリストの十字架と復活を信じるという道です。

聖書によれば、救い主は2度地上に来られます。1度目は既に2千年前に実現しました。救い主イエスさまは、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、血を流してくださいました。そして、復活して天にお帰りになりました。イエスさまが自分の罪のためにしに、復活なさったと信じる人は、誰でも神さまの救いをいただき、罪を赦され、神さまの子どもにしていただけます。そして、世の終わりのさばきの時にも守っていただけます。

本来、私たちはやみの中に滅びるはずの者でした。しかし、そんな私たちを、神さまは守り、引き上げ、救ってくださいます。ハンナが勧める通り、私たちは謙遜になって、イエス・キリストが与えてくださる救いを信じ、信じ続けましょう。そして、たとえ地上では報われないなと思うことがあっても、イエスさまの喜ばれる行ないを、愚直に、コツコツと、忠実に行なわせていただきましょう。

まとめ

現在も、世の終わりも、神さまは逆転勝利を与えてくださいます。それを信じましょう。

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