ことばであるキリストの誕生

トップページ聖書のメッセージ集2014年 > このページ


ヨハネによる福音書1章1〜16節

(2014.12.21)

参考資料

ここで登場する「ことば」は、ギリシャ語で「ロゴス」。当時のユダヤのラビ(律法の教師)たちは、救い主(メシヤ、キリスト)のことをアラム語で「メムラ」(ことば)と呼んで説明していました。ヨハネは、メムラの訳であるロゴスという言葉を用いることで、イエスというお方こそが、約束の救い主なのだということを主張しています。

6節、15節の「ヨハネ」は、この福音書の著者のことではなく、イエスさまより少し前に活動を始めた、バプテスマのヨハネのこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

本日はクリスマス礼拝です。クリスマスは、元々はサンタクロースの日ではなく、イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。世界中で誕生をお祝いされるイエスというお方は、いったいどんな存在なのでしょうか。ヨハネは、イエスさまのことを「ことば」と呼びました。

1.神

神が人となって来られた

1節には「ことばは神であった」と書かれています。また3節には「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と書かれています。すなわち、ことばであるイエスさまは、天地をお作りになり、支配しておられる、全知全能の神だということです。

イエスさまが、道徳的で立派な教師だったということは、別にクリスチャンではなくても認めるところでしょう。同様に、仏教の開祖である釈迦は立派な人物だったろうと思います。イスラム教のマホメットや儒教の孔子もそうでしょう。

しかし、イエスさまが彼らと決定的に違うところがあるとすれば、彼らは単なる人間ですが、イエスさまは神が人となって来られた方だということです。イエスさまは、人であり、同時に神であるお方です。

神が近くに来てくださった

14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と書かれています。この「住まわれた」という言葉は、元々テントを張るという意味です。

昔、イスラエルがエジプトを脱出して荒野で生活していた頃、神さまは「会見の天幕」、すなわち特別なテントを作るように命令なさいました。会見の天幕(幕屋)の中心にあった至聖所という場所には、神さまの栄光が充ち満ちていました。会見の天幕は、宇宙を作って支配しておられるお方、目に見えない神さまが臨在なさる場所となったのです。

そして、今から2千年前、神さまは人となり、私たちのところに下ってきてくださいました。聖書の神さまは、私たちのことを遠くから眺め、助けて欲しかったらここまで登ってこいとおっしゃる方ではありません。

聞かれる祈り

この宇宙を造り、支配しておられる方が、あなたのすぐそばにいてあなたの直面している様々な問題を知っていてくださいます。そして、あなたの心の叫びに耳を傾けてくださいます。

2000年前、イエスさまはたくさんの奇跡を行ないました。そして、イエスさまは今日においても奇跡を行なうことができます。

仕事や人間関係、経済や健康などの状況において、私たちは八方ふさがりの状態に置かれることもあるでしょう。しかし、それでもなお、私たちは上を見上げ、奇跡を求めて祈ることができます。そして、その祈りは必ず聞かれます。祈ったとおりにならなかったとしても、もっとすばらしい答えが用意されています。

2.人の光

人の闇

第1のポイントでは、イエスさまは神であって、しかも私たちのすぐ近くにいてくださり、私たちを見守り、導いてくださると学びました。では、本当に私たち人類は、祈りの力を体験したり、感動や力や平安に満ちた生き生きとした人生を送ることができているでしょうか。

4-5節には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と書かれています。イエスさまは私たち人類にとって、闇を打ち破る光だということです。

この表現には前提があります。私たち人類は闇の中に閉ざされていたということです。皆さんは、真の闇というのを経験したことがおありですか? それは恐怖であり、不安です。私たちの心も、さまざまな闇に覆われることがあります。恐怖、不安、憎しみ、恨み、自己嫌悪、無力感、罪責感……。第1のポイントが約束していることと、真逆の状態ですね。

もし私たちが神さまがくださるすばらしい人生を体験できていないとすれば、それは神さまと私たちとの関係が切れてしまい、おかしくなっているからでしょう。こういう状態のことを聖書は「罪」と呼んでいます。

罪とは

聖書が言う罪とは、「悪いことをする」というよりも、「的はずれ」という意味です。神さまの方を向いていないということ、神さまのことを信頼せず、従おうともしていないということです。「神なんかいらない。自分の人生は自分だけのもので、自分の好きなことを好きなときに好きなようにやりたい」という生き方です。

そのような生き方は、自分の欲望をある程度満足させることはできますが、宇宙の支配者との関係が切れているので、自分の知恵や能力を超えた状況に置かれると、「何があっても大丈夫」という平安を失うことになります。

そして、みんなが「自分の好きなことをするんだ」と思っていれば、どこかで利害がぶつかり合って、争いになります。こうして人と人とが争うようになり、その大規模なものが国と国との戦争です。

争いに勝てばまだいいですが、負ければ欲求不満や悔しさ、場合によっては死を味わわなければならなくなります。たとえ勝ったとしても、周りの人との関係は悪化します。

また、造り主との関係が切れていると、自分の価値を証明するために、私たちは何かを身につけたり、何かをしたりしなければならなくなります。勉強ができるとか、ほめられるとか、社会的に成功して認められるとか、道徳的に申し分のない生活をするとか……。

しかし、私たちは完璧ではありません。そこで、「自分には価値がある」と思える条件をクリアできているうちはいいですが、壁にぶつかると、自分はだめだという思いにとらわれてしまいます。

また、自信のない人は他の人と比較して、自分の方が優れているということを確認することで、自信をつけようとします。そこで、お互いに他の人のあら探しをし、それを責めるような態度を取るかも知れません。あなたがあら探しをするかも知れないし、あなたがあらを指摘される立場になるかも知れません。もちろん、そんなことをすれば、人との関係が悪くなります。

こうして、私たちは時に、不安や無力感、自己嫌悪といった不快な感情にとらわれてしまうことになるのです。また、そのような不快な感情を味わわせた他人や世界に対して、怒りや恨みを抱くようになるのです。

十字架と復活を信じよう

イエスさまは、罪の闇を打ち破る光として来られました。すなわち、私たちの罪を赦し、私たちと神さまとの関係をもう一度結び直すために来られたということです。そのために、イエスさまは、十字架にかかって死なれました。イエスさまは、十字架にかかって死ぬために地上に来られたのです。

イエスさまは、私たちが罪の罰によって滅ぼされることがないように、神さまの赦しを私たちのものとして、もう一度神さまとの関係を回復することができるように、私たちの罪の罰を、全部身代わりに負ってくださいました。これが十字架です。

そして、イエスさまは3日目によみがえり、今も生きておられます。12節にこのように書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」

もしあなたが
  • 自分の中に確かに罪があると認め、そのために神さまとの関係がおかしくなって、本来の生き生きとした人生を送ることができないのだと認める。
  • イエスさまが自分の罪を赦すために、代わりに死んでくださったのだと認める。
  • イエスさまは復活して生きておられると認め、そのイエスさまに「お赦しくださってありがとうございます」と感謝する。
  • これからは、神さまに従い、神さまといい関係で生きていきたいと願い、そうできるよう助けを求める。
そうするなら、あなたはその瞬間に救われ、罪赦され、神さまの子どもになることができます。もしまだあなたが一度もイエスさまを信じる祈りをしたことがないのなら、今ここでそれをなさいませんか?
「天の神さま。私は罪人でした。あなたを信じず、あなたに従わず、自分勝手に生きてきました。それが間違いだと認めます。どうかお赦しください。そして、十字架にかかり復活なさったイエスさまのおかげで、私のすべての罪が赦されて神さまの子どもにしていただいたことを信じます。ありがとうございます。これからは、あなたに従い、あなたの喜ばれる生き方を目指していきますので、弱い私をどうか助けてください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン」。
アーメンとは、「この祈りは真実です」という意味です。もし、あなたが今この祈りをなさったのなら、おめでとうございます。あなたはクリスチャン、神さまの愛する子どもです。

私たちクリスチャンは、人生のある日ある時、その決断、その祈りをしました。それだけでなく、私たちは、毎日毎日、一瞬一瞬、決断し続けなければなりません。決断し損なっても、あるいは従うことに失敗したとしても、罰を受けることはありません。もう一度悔い改め、決断し直せばよいのです。

あなたが、あなた自身の立派さによってではなく、イエスさまのおかげで、今そのままで神さまに愛され、祝福されている。これを聖書は恵みと呼びます。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」(16節)。その通りです。私もあなたも、今そのままの姿で、神さまに圧倒的に愛されています。そして、考えられないような祝福を体験することができます。

まとめ

神であり人の光であるイエスさまを信じましょう。そして、信じ続けましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2014 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.