神の摂理

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第1サムエル記9章1〜17節

(2014.12.28)

参考資料

1節の「ベニヤミン人」は、ユダヤ人の中のベニヤミン部族という意味。エルサレムの少し北に領地がありました。

4節の「エフライム」はエフライム部族領のことで、ベニヤミン部族領の北にあって、新約時代のサマリヤ地方の南部に当たります。「シャリシャ」「シャアリム」の場所ははっきりしていません。5節の「ツフ」はベニヤミン部族領にあった町です。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回の箇所は、私たちクリスチャンは、どんな状況に陥っても平安や希望を抱き続けられるということを教えています。

1.ナイスタイミング

王を与えるという神の決断

前々回のメッセージで、イスラエルの民が預言者サムエルに王を求めた記事を取り扱いました。神さまはその願いを聞き届けるようにサムエルに語られました。ところが、誰を王に立てれば良いのか、その人選については神さまからサムエルに何の指示もありません。そこで、サムエルは神さまの語りかけを待っている状態です。今回の記事は、その続きです。

サウルとサムエルの出会い

ベニヤミン族に属するサウルという青年が登場します。ある日、彼のお父さんが飼っていた雌ロバがいなくなります。そこで、サウルは召使いの一人と探しに出かけます。あちこち探し回りましたが(一説によれば、50キロほどの道のり)、全く見つからず、サウルはいったん家に戻ろうと言います。

すると、召使いが預言者サムエルのことをサウルに教え、彼に尋ねてみようと提案しました。サムエルへの贈り物についても、召使いが立て替えようと言ってくれました。良い助言者がいるというのは、幸いなことですね。

町に向かう途中で出会った娘たちに預言者について尋ねると、ちょうど今日、サムエルが町にやって来たという答えが返ってきます。昨日だったら会えなかったし、次の日でももしかしたら会えなかったかも知れません。ナイスタイミングです。

一方サムエルには、前の日に、王となるべき人物がやってくるというみつげがありました。そして、自分の方に向かってくるサウルを見たとき、「彼がその人だ」と告げられます。

この後、サムエルはサウルを食事に誘い、迷子の雌ロバは既に家に戻っていると告げ、翌日油をそそいで王に任命しました。

神による不思議な導き

私たちは、サウルがサムエルの元に導かれるプロセスの中に、神さまのご計画と導きがあったということに気付かされます。

神さまはイスラエルに王を与えようとお決めになりました。そして、サウルを初代の王にすることを決意なさり、彼を預言者サムエルと会わせようとお決めになりました。そして、そのために雌ロバを一時的に迷子にさせ、サウルが旅に出なければならない状況をお作りになりました。さらに、ちょうどいい日時に、サウルとサムエルがツフの町に来るよう、彼らの行動を導かれました。

といっても、登場人物たちは、神さまの計画を実現させようと意識して行動していたのではありません。彼らは、それぞれ自らの自由意志で自らの行動を決めました。
  • 雌ロバは、サウルをツフに導こうとしていなくなったわけではありません。
  • サウルも召使いも、最初からツフに行こうとしていたわけではありません。雌ロバを探すうちに、たまたまツフの近くを通りかかったのです。
  • サムエルがツフに行こうと決めたのは、最初は祭司として町の人々のためにいけにえをささげるためであって、サウルに会うためではなかったはずです。
  • 召使いがサムエルに会うことを提案したのは、雌ロバを探すためであって、若旦那を王にするためではありません。
  • 召使いが1/4シェケルの銀貨を持っていたのも、最初から預言者に会うことを予想してのことではないでしょう。
しかし、一見各自がばらばらに決めたように思える行動が、サウルをサムエルと出会わせ、王に任命するという神さまの目的達成のために、すべて見事に用いられています。

2.摂理の信仰

神の摂理

私たちが聖書を読んだり、他の人の証しを聴いたりするとき、神さまの驚くような奇跡のわざにばかり注目しがちかも知れません。奇跡はものすごくダイナミックで、驚きに満ちたものですから。私自身、病院に行ってもなかなか治らなかったアレルギーを、教会の祈祷会で祈ってもらって、瞬間的にいやしていただいた経験があります。

ただ、奇跡というものは滅多に起こるものではありません(だからこそ、起こったときに、人の心にインパクトを与えるのです)。しかし、今回の記事のような、偶然の一致という言葉では説明できないようなナイスタイミングの出来事、不思議な巡り合わせ、「いろんなことが、何だか一定の方向にどんどん進んでいく」という感覚は、私たちの信仰生活の中で頻繁に体験できることではないでしょうか。

摂理」という言葉があります。これは、天地を作られた全知全能の神さまが、世界のあらゆる出来事や状況、人や動植物たちや御使いたちに働きかけ、これらをしっかりと導いて、ご自分の目的を確実に達成なさることを意味しています。

背後にあるのは愛である神の計画

摂理は、単なる運命論、宿命論ではありません。運命とは「人間の意志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと」のことです(大辞泉より)。

単なる運命論は、人間の幸せや不幸は生まれつき決まっていて、人間の努力や意識によっては変えることができないという考え方です。星占い、血液型性格判定、姓名判断などにも、運命論が影響しています。要するに、人生はなるようにしかならない、悪い星の下に生まれたら、どんなにがんばってももうどうしようもないというふうに、ともすれば人から希望ややる気を奪ってしまいます。

「摂理」の教えは、それとは全く違います。摂理のわざは、神さまの目的を達成するために行なわれます。そして、聖書は神さまが愛であると教えています。神さまは私たちを愛してくださっています。そして、私たちとの愛の関係を回復するため、私たちの罪を赦そうとなさいました。そのためにイエス・キリストが来られ、十字架にかかって死んでくださり、復活して、今は私たちのために取りなしをしてくださっています。

神さまは、私たちを不幸にするためではなく、本当の幸せに導こうとしておられるのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)

この聖書の約束を、私たちはどれだけ深く理解し、信じ、期待しているでしょうか?

問題や失敗でさえも

ローマ書の約束は「すべてのことを」と教えています。すべてのことですから、たとえ、一見不幸と思えるような状態に陥ったとしても、不信仰に陥ったり、失敗だと思えるようなことをやらかしたりしてしまったとしても、最終的には私たちを本当の幸せへと導いてくださるということです。

昔、イスラエルの民は偶像礼拝に陥りました。まことの神さまに信頼する代わりに経済力や軍事力に寄り頼みました。預言者たちが神さまを信頼し、神さまに従うようにと何度も警告しますが、彼らはそれを聞き入れませんでした。そこで、警告通り、外国(バビロン)の軍隊が攻めてきて、国を滅ぼしてしまい、たくさんの国民がバビロンの都に連れて行かれました。

そういう絶望的な状況にあるイスラエルの民に向かって、神さまは預言者エレミヤを通して語られました。

「まことに、【主】はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ』」(エレミヤ29:10-11)

国が滅びるという大変な不幸を体験したイスラエルの民は、偶像礼拝の恐ろしさ、神さまに逆らうことの愚かしさを学びました。やがて約束通りバビロンから約束の地に帰ってきたイスラエルの人々は、熱心に聖書のことばを学び、神さまに仕えようとしました。失敗を通して、神さまはイスラエルを霊的に再生し、成長させてくださったのです。

だから、私たちは安心することができます。何があっても大丈夫と。

ただし、それは、
  • 私たちが、神さまのみこころを学ぶ必要がないということではありません。
  • 私たちが、神さまのみこころに従うための努力をしなくていいということではありません。
  • 私たちが、与えられた理性を使って、自分の人生に様々な夢を抱き、計画を立て、その実現のために行動しなくていいということではありません。
なぜなら、神さまは、ご自身が私たちを愛しておられるように、ご自身も私たちから愛されたいと願っておられるからです。

幼稚園の娘が台所に来れば、お母さんは一緒に料理を作ろうと誘います。お母さん一人で作った方が、きっと早くできるし、おいしくできるし、きれいにできることでしょう。でも、お母さんは子どもと一緒に作りたいと願います。神さまも同じです。神さまお一人で何でもできますが、私たちもそこに参加して欲しい、一緒にすばらしいことを実現したいと願っておられます。

ですから、私たちは、熱心にみこころを学び、みこころに従う生き方がどのようなものなのかということを一瞬一瞬考え、決断し、実行していきましょう。

そうすれば、私たちと神さまの絆は強く太くなります。すると、たとえ問題だらけの状況に陥ったとしても、あるいは自分の責任で失敗したとしても、神さまは決して間違いなく、私たちを良い方向へと導いてくださると信じやすくなることでしょう。何があっても、安心ですね。

まとめ

神さまは、あなたの人生を確実に良い方向に導いてくださっています。慌てるようなことがあっても、そのことを思い出して安心しましょう。

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