人生の軸

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第1サムエル記24章1〜22節

(2015.2.22)

参考資料

1節の「エン・ゲディ」は死海西岸の荒野にあるオアシス。

6節の「主に油そそがれた方」とは王のこと。サウルが王に選ばれた時、神さまに遣わされた預言者サムエルが、彼の頭に油を注ぎました(10:1)。この油そそぎは、神さまの霊(聖霊)が注がれることを象徴しており、10:10でサウルの上に聖霊が激しく下りました。ダビデのときも同じです。

聖書からのメッセージ

イントロ

スポーツでもダンスでも、体幹(体の軸)がしっかりしていることが、良いパフォーマンスを発揮するのに大切だと言われます。軸がしっかりしていないと、ちょっとしたことで体がぶれてしまい、本来の力を発揮できなかったり、ミスをしたりしてしまいます。

人生においても、軸をしっかりと定めることが大切です。軸とは、「自分はこれを大切にする」と決めているものです。これがしっかりしていないと、その時々の状況や気分によって、やることが変わってしまって、本来だったら達成できることが中途半端になってしまったり、人からの信頼を失ってしまったりします。

今日は、人生の軸について、ダビデとサウルを比較してみましょう。

1.ダビデとサウル

ダビデ

ダビデに王位を奪われると思い込んだサウルは、たびたびダビデの命を狙ってきましたが、神さまの介入もあって、ダビデの命は守られてきました。

このたび、ダビデが死海西岸のエン・ゲディに隠れているという情報を得たサウルは、3000人の精鋭部隊を率いて捜索を開始します。ダビデ1人を殺すのに3000人というのは大げさなようですが、この頃には約400人の不満分子がダビデと行動を共にしていましたから、サウルとしては兵力を出し惜しみすることはできません。それだけ、サウルの殺意が本気だったということですね。

捜索の途中でトイレに行きたくなったサウルは、用を足すために1人で洞穴に入りました。実は、ダビデと部下たちは、その洞穴に隠れていたのでした。これはサウルを殺して、危険な逃避行生活にピリオドを打つチャンスです。当然、部下たちは、サウルを殺すように進言しました。

ダビデもその気になって、こっそりサウルの背後から近づきました。しかし、剣をサウルに振り下ろそうとする直前、ダビデはこの行為は間違っていると悟りました。サウルは、主が油そそがれた方、すなわち神さまが王に選んだ人物であって、神さまに殺せと命じられていないのに手を下すことは、すなわち神さまに対する反逆だと考えたからです。

そこで、ダビデはサウルを刺し殺す代わりに、上着のすそをこっそり切り取るに留めました。自分に反逆の意思がないことの証拠とするためです(11節)。5節には「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた」と書かれていますが、後悔したのは裾を切り取ったことというよりも、一時的にもサウルを殺そうと思って近づいたことです。

そして、部下たちにもサウルを襲わないように説得し、サウルが洞窟から出ていくと、彼に声をかけ、謙遜にひれ伏して臣下の礼をとり、自分に反逆の意思がないことを訴えました。

サウル

サウルは、ダビデが自分を殺して王になろうとしていると思い込んでいました。もしその考えが当たっているなら、今回は自分を殺す願ってもないチャンスだったはずです。にもかかわらず、ダビデは自分を殺しませんでした。ダビデに反逆の意思がないことを、サウルは知ったのです。

そこで、サウルは自分の過ちを認め、さらにはダビデが必ずイスラエルの王になることも認めました。こうして、両者の和解が成立したかに見えました。

ところが、ダビデはサウルと合流して王宮に帰ろうとはせず、そのまま別行動することを選びました。これまでも、サウルはダビデを殺さないと約束しながら、すぐにその約束を破ってダビデの命を狙ったことがあります(19章)。ですから、サウルの反省の言葉を、額面通り受け取ることができなかったのでしょう。

実際、サウルは間もなく前言を撤回し、またもダビデの命を狙い始めます(26章)。彼の行動は、一貫したものにはなっていませんでした。

ダビデ再び

26章で、またもダビデの命を狙って、サウルが出陣します。そして、今回と同じようなことが起こりました。26章では、ダビデはサウルが寝ているテントに忍び込み、サウルの枕元にあった槍と水差しを取って行きました。そして、翌朝それをサウルに見せ、自分に反逆の意思がないことを訴えたのでした。

この時も、部下はサウルを殺させてくれと訴えましたが、ダビデは今回同様、主に油そそがれた方を殺すわけにはいかないと許可しませんでした。ダビデの行動は一貫していたのですね。

2.何が人生の軸か

ダビデという教師

今回の記事に登場するダビデから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

ダビデの行動が一貫していたのは、ひとつのことを大切にし続けたからです。それは、「神さまのみこころを実行する」ということです。これが彼の人生の軸です。

状況は、ダビデがサウルを殺しても仕方のないものでした。だって、サウルの方がダビデを殺そうとしいて、ダビデは絶体絶命の状況に置かれていたのですから。たとえここでダビデがサウルを殺しても正当防衛というものです。ダビデの親友であり、サウルの息子であるヨナタンは、ダビデがサウルを殺したらきっと悲しむでしょうが、それでもダビデの正当防衛を理解して、赦してくれるはずです。

また、感情的にもダビデはサウルを信用できません。これまでたびたび裏切られてきましたから。2度にわたってダビデに命を救われたサウルは、そのたびに反省しましたが、ダビデは結局サウルと一緒に王宮に帰ろうとしませんでした。

しかし、たとえ状況がそれを許していたとしても、また感情的にサウルのことを受け入れられなかったとしても、だからといってダビデは感情に任せてサウルに害を加えることをしませんでした。

それは、神さまの願いは、ダビデ自身がサウルを殺して王になることではなく、神さまの導きによって王になることだと知っていたからです。

私たちも、「何があっても、感情がどうでも、私は聖書が教える神さまのみこころを優先しよう」と決めましょう。それは決して楽な道ではありませんが、結局最も安全な道であり、祝福に至る道です。

サウルという教師

ただ、私たちはいつもいつも一貫した生き方ができるわけではありません。神さまのみこころはこっちだと分かっていても、そして何度も「何があっても神さまのみこころの方を優先します」と誓っていても、「こっちの方が楽だから」とか、「こっちの方が儲かるから」とか、「他の人に何を言われるか分からないから」とかいって、生き方がぶれてしまうことがありますね。

そう、私たちもサウルなのです。

今回は一貫した生き方の模範を示してくれたダビデだって、このあと何度も、自分の感情とか欲望とかを神さまのみこころよりも優先し、道を踏み外してしまいます。残念ながら、これが地上に生きる人間の限界なのでしょう。

だから、神さまは、いつも私たちに赦しの道を用意してくださっています。イエス・キリストが十字架で流してくださった血は、私たちの罪を赦し、きよめ、私たちと神さまが親子として愛し合うことができるようにしました。私たちは、私たちの信仰深さや、誠実さによってではなく、イエスさまのおかげで赦され、救われています。

さらに、神さまは、私たちだけの力で神さまの望まれる生き方をするのではなく、神の霊である聖霊さまの助けを受けられるようにしてくださっています。

ダビデはサウル王のことを「主に油そそがれた方」と呼んでいます。これは、神さまが遣わした預言者サムエルが、サウルを王に任命する際、オリーブ油を頭に注いだからです。ダビデも、王に任命された時に同じことをされました。これは、神の霊である聖霊さまが下ることを象徴しています。

昔は限られた人だけが、聖霊に満たされました。しかし、今は、イエス・キリストを信じるすべてのクリスチャンの心の中に、聖霊さまが住んでくださり、神さまのみこころを行なうことができるように助けてくださいます。そう、サウルのような私やあなたもです。

まとめ

体の軸をしっかりさせるのは、日々の体幹トレーニングの賜物です。

私たちも、人生の軸をしっかりさせるため、「何があっても、感情がどうでも、私は聖書が教える神さまのみこころを優先しよう」と、一瞬一瞬新たに決意し続けていきましょう。

そして、そうすることができるよう、聖霊さまの助けを求め続けましょう。

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