私たちの鏡

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第1サムエル記25章2〜38節

(2015.3.1)

参考資料

2節のマオンは、死海の西にある山地の町で、ヘブロンの14キロ南にありました。現代のキルベト・マイン。カルメルはそのすぐ北にある町です。

3節のカレブ人とは、出エジプトの時、ヨシュアと共に約束の地を偵察し、信仰的な報告をしたカレブの子孫ということ。ダビデと同じユダ部族に属します。

25節の「その名のとおりの男」というのは、ナバルという名には「愚か者」という意味があるためです。

この事件の後、アビガイルはダビデの妻に迎えられます(王宮にいた頃にめとったミカル、逃亡後にめとったアヒノアムに続いて3人目です)。そして、次男キルアブ(ダニエル)を産みます。

聖書からのメッセージ

イントロ

成功する人は、失敗から目をそらさず、そこから多くの教訓を得ることができる人です。たとえ他人の失敗でも、そこにはたくさんの学ぶべき教訓があります。ナバルの生き方から、あなたは何を学ぶでしょうか?

1.ナバルの問題点

恩知らずである

その頃、サウル王に命を狙われ、逃亡生活を続けていたダビデは、兵士だけで600人を抱える大所帯になっていました。毎日、彼らを食べさせるだけでも大変なことです。

ある時、事業家であるナバルが羊の毛の刈り取りを祝うパーティを開くと聞いたダビデは、使者を遣わして、自分たちにも祝儀として食事を与えてくれるよう頼みました。旅人をもてなしたり、祭りのパーティで、近所の人たちや貧しい人たちにお裾分けしたりするのは、中東では当然のことですから、特にダビデが図々しいということではありません。

しかも、ダビデは、これまでナバルの羊飼いたちに親切にしてやっていました。

昨年末、北朝鮮の兵士が国境を越え、中国の村で4人の住民を殺して食料や金品を奪うという事件が起こりました。飢えた軍隊というものは、だいたい略奪行為に走るものです。ところが、ダビデの兵士たちは、ナバルの羊飼いたちと行動を共にした時に物を盗んだり、金品を無理矢理取り上げたりすることが一切なく、それどころか自発的に野獣や盗賊、外国の略奪隊などから彼らを守ってやっていました。

ところが、ナバルはダビデの願いを断ります。何という恩知らずでしょうか。

先のことを考えられない

ナバルは、ダビデとその部下たちの願いを退けたばかりか、彼らに対して侮辱的な発言をしました。当然のことながら、これはダビデの怒りを招く行為でした。

前述の通り、ダビデの兵士たちは、ナバルの羊飼いたちの持ち物を一切盗みませんでした。これは、ダビデの兵士たちが単なる寄せ集めではなく、ダビデの元でしっかり統率が取れていたという証拠です。ダビデは落ちぶれたとはいえ、未だ歴戦の勇者であり、しかも600人からの強力な軍隊を率いていたということです。

ちょっと考えれば、自分のしたことがとんでもない事態を引き起こすだろうということがナバルにも分かるはずです。実際、怒り狂ったダビデは、ナバルとその一族郎党を、子どもに至るまで皆殺しにすることを決意します。しかし、名前の通り愚かなナバルは、一切気にしません。あとで、妻から事の顛末を聞いて、ショックで倒れる始末です。

彼は、自分の行為が将来どんな結果を招くかということよりも、今その時の感情とか欲望とかに正直に生きた人のようですね。

聞く耳を持たない

ナバルの悲劇は、誰も彼に面と向かって意見してくれる人がいなかったということです。大虐殺の危険を察したしもべの1人は、ナバル本人ではなく、奥さまのアビガイルに話をしています。

しもべは言いました。「ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです」(17節)。これまでの経験から、しもべたちはナバルが自分たちの話に素直に耳を傾けないということを知っていたのですね。話したとしても、きっと返ってくる答えは「うるさい」「今はそれどころじゃない」「誰に向かって物を言っているんだ」「偉そうに説教するつもりか」……に決まっています。そして、かえってひどい目に遭わされることでしょう。

良いリーダーは、目下の人たちの意見にも素直に耳を傾けようとします。その意見を採用するかどうかは別ですが、たとえ耳の痛い話でも、ひとまず真剣に聞こうとします。

残念ながら、ナバルはそうではありませんでした。しっかりしもべの話を聞いてくれるアビガイルがいなかったら、ナバル一家は皆殺しに会うところでした。

2.私たちの鏡であるナバル

私たちもナバルになり得る

聖書の中には、「しょうもない人たち」があちこちに登場します。その人たちの記事を読むと、「まったくしょうがないなあ」と軽蔑したくなりますが、ちょっと待ってください。彼らの姿は、私たちを映す鏡です。私たちだって、彼らと同じような愚かさや弱さを抱えており、同じ状況に置かれたら、彼らと同じ事をしてしまうかもしれません。

愚か者という名を持つナバルは、恩知らずでした。しかし、私たちはどれだけ私たちに良くしてくださっている神さまに対して、感謝の思いに満ちあふれているでしょうか。そして、神さまが私たちにして欲しいと願っておられる事を、どれだけの感謝と喜びを持って実行しようとしているでしょうか。

また、ナバルは将来を見通すことができず、今の感情や欲望に従って行動を選択していましたが、私たちはどうでしょうか。聖書は「朽ちることのない宝を天に積みなさい」と勧めています(ルカ12:33)。将来神の国に入れられた時の祝福を見通して今の行動を選択しなさいということです。しかし、そうする代わりに、今の感情や欲望を優先させて選択することがないでしょうか。

そして、ナバルは聞く耳を持っていませんでした。イエスさまはよく、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました(マルコ4:9など)。私たちは、神さまの語りかけにしっかりと耳を傾けているでしょうか。あるいは、主にある兄弟姉妹が聖書に基づいてアドバイスしてくれることに対して、素直に耳を傾けようとしてきたでしょうか。

愛と赦しの神

ダビデはナバルの態度に激しく怒りました。そして、その報いを与えようとしました。ところが、贈り物を持って駆けつけたアビガイルは、ダビデにこう語りました。「あの罪は私にあるのです」(24節)「どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください」(28節)

今回の事態を招いたのは、ただただナバルの責任ですが、アビガイルはその責めを自分が負おうとしています。その真摯な態度に触れて、ダビデは怒りを静めます。

私は、アビガイルの中に主イエスさまの姿を見ます。イエスさまは、まったく罪のないお方だったのに、私たちの罪を身代わりに負って、神のさばきをお一人で引き受けてくださいました。故に、私たちは罪を赦され、それどころか神さまの子どもにしていただき、考えられないような祝福を約束される……これが聖書の教える福音(良い知らせ)です。

私は20歳の時にイエスさまを信じてクリスチャンとなりました。しかし、それ以前も、神さまの愛は私に注がれていました。私たちが神さまを信じていてもいなくても、神さまの愛に感動していてもいなくても、神さまの側の愛は私たちに注がれ続けています。

ナバル的な要素は私たちの中にもあります。しかし、神さまのさばきが恐ろしいからではなく、神さまの愛に感動し、イエスさまの犠牲に感謝して、神さまのみこころを行ないたいものですね。

まとめ

自分の中にあるナバル的な要素を日々悔い改めながら、神さまの愛に感動しつつ、神さまのみこころを実践して参りましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド

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