人生の分岐点

トップページ聖書のメッセージ集2015年 > このページ


第1サムエル記30章1〜31節

(2015.3.15)

参考資料

27章で、サウル王を恐れたダビデは、イスラエルの敵であるペリシテ人、ガテの王アキシュを頼り、ツィゲラグの町を与えられました。そして、アマレク人やゲシュル人などを攻撃し、「イスラエルの町を攻撃してきました」とアキシュに報告して信用を得ました。ところが、いよいよ本当にイスラエルとの戦いに出なければならなくなります。しかし、ペリシテ人の首長たちがダビデの同行を拒んだため、ダビデたちはイスラエルと戦わずに済みます。そして、ツィゲラグの町に戻ってきてからの話が今回の箇所です。

1節の「アマレク人」は、エサウの孫アマレクから出た民族で、イスラエルの南方に住んでいました。「ネゲブ」はベエルシェバより南の地方です。

7節の「エポデ」は祭司の着る装束で、どうやって使うかは分かりませんが、神さまのみこころを探るのに使われました。

聖書からのメッセージ

イントロ

人生は選択の連続です。どんなふうに行動を選択していけばいいでしょうか。ダビデの間違った行動と正しい行動から学びましょう。

1.神に聞かなかった結果

アキシュを頼る

ダビデは、これまで何度もサウル王に命を狙われてきました。そのたびに神さまが彼の命を守ってくださいましたし、ダビデもサウルを逆に殺そうとはしませんでした。ところが、27章で、ダビデはこんな事をしてしまいます。

「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう』。そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った」(27:1-2)

ダビデには祭司エブヤタルが同行していて、これまでは彼を通して神さまのみこころを探り、それに従って行動していましたが、今回は「心の中で」、すなわち一人で決めてしまいました。

今の私たちには、神さまは聖書と祈りを通して行なうべき道を示してくださいます。しかし、私たちもダビデのように、自分の心の中だけであれこれ考え、結論を出してしまうことがありますね。

ダビデの知恵

ダビデを快く迎え入れたアキシュは、彼と600人の部下たち、そして彼らの家族のためにツィゲラグという町を与えてくれました。破格の待遇です。ダビデが有能な戦士であることはアキシュも知っていましたから、自分のために戦わせようとしたわけです。もちろん、戦う相手はイスラエルです。

これは困りました。サウルの手から逃れることはできましたが、今度は祖国イスラエルとサウル王に戦いを挑まなければならない立場になってしまいました。いくらサウル王にひどい目に遭わされてきたとはいえ、ダビデとしてはそんなことはしたくありません。

そこでダビデは一計を案じます。アマレク人などイスラエル以外の民族の町を攻撃しておいて、アキシュにはイスラエルの町を攻撃してきたと偽りの報告をしたのです。そこで、アキシュはますますダビデを信用するようになりました。

こんなことが1年4ヶ月続きました(27:7)。28章で、ペリシテ人は大軍をイスラエルに送ることになりました。すっかりダビデを信用したアキシュは、彼も一緒に出陣させることにします。今度ばかりはこれまでのようなごまかしはききません。さあ、困った。

この戦いでサウル王も3人の王子たちも死んでしまい、その結果、イスラエルの人々はダビデを次の王として迎えることになります(第2サムエル2:4と5:3)。しかし、もしもここでダビデがイスラエルと戦ってしまったとしたらどうなるでしょう。彼自身の気持ちが落ち着かないというだけに留まりません。イスラエルの人々はダビデを王として認めることはしないでしょう。

人の知恵は、その時は良く見えても、いつかは破綻してしまうものです。

神のあわれみ

ところが、思わぬ所から救いの手が入ります。ペリシテ人の首長たちがダビデの同行を拒否したのです。裏切るに決まっているというわけです。アキシュはダビデを帰さざるを得なくなりました。こうして、ダビデは祖国との戦いを回避することができました。

神さまを忘れて、自分の知恵や力で問題を処理しようと頑張ったダビデは、どうしようもないところまで追い詰められました。しかし、神さまはダビデを見捨てませんでした。神さまは何とあわれみ深い方でしょうか。あなたもまた、神さまに見捨てられることはありません。

2.神に聞いた結果

信仰のテスト

ダビデが、やれやれと思ってツィゲラグに戻ってみると、アマレク人が襲撃したあとで、家族も財産もみんな持ち去られてしまっていました。部下の中には、悲しみのあまり、ダビデを殺してしまおうという者さえ現れました。

これは、ダビデに対する信仰のテストです。問題がやって来たとき、前回と同じように自分の知恵や考えに従って行動するのか、それとも神さまのみこころを求め、それに従うのかというテストです。

私たちの人生は、いつも選択の連続です。それはクリスチャンであってもなくても同じですが、私たちクリスチャンにとって、選択の基準は神さまのみこころがどこにあるのかということでなければなりません。

神さまが聖書を通し、祈りを通して方向を示しておられるなら、私たちはそれに従うべきです。どんなにそれが、
  • 実行するのが大変な行動でも、
  • 一見損をするような行動でも、
  • 他の人に馬鹿にされるような行動でも、
  • 自分の気持ちに反するような行動でも、
それを行なうべきです。

そして、神さまが特に方向を示しておられないことに関しては、私たちは自由に選ぶことができます。

テストに合格

ダビデは、今回は正しい道を選びました。自分一人であれこれと対応策を練るのではなく、祭司エブヤタルを呼んで、この事態にどう対処したらいいか、神さまに尋ね求めさせたのです。

その結果、アマレク人が見捨てた奴隷と出会うことができ、彼の手引きによってアマレク人を奇襲することができました。そして、見事に家族や財産を取り戻しました。

さらなる分岐点

しかし、本当に人生は信仰の選択の連続ですね。またも問題が持ち上がります。

600人の部下のうち、200人は疲れて川を渡ることができなかったため、荷物番として残りました。そして、400人がアマレク人と戦って勝利しました。その400人の一部が、戦わなかった200人には戦利品の分け前をやるべきではないと言い出したのです。

これは一見もっともな主張のように見えます。命がけで戦っても、ゆっくり休んでいても同じ報酬だというのでは、頑張って戦う意欲を失います。かつて、「能力に応じて働き、必要に応じて分配される」という平等な社会を目指した共産主義の国の多くが、経済的に低迷して立ちゆかなくなってしまいました。その理由の一つは、みんな真面目に働かなくなったためです。

しかし、ダビデは「これは神さまが与えてくださった勝利であり、神さまが与えてくださった戦利品なのだから、荷物番をしていた者たちにも等しく分配すべきだ」と言いました(23-24節)。

自分たちが頑張って獲得した勝利なら、頑張った量に応じて分配されるべきでしょう。しかし、神さまが助けてくださったのなら、ほめたたえられるのは神さまでなければなりませんし、戦利品も、神さまからのプレゼントとして取り扱われなければなりません。神さまは、戦った400人だけでなく、600人全員を愛しておられます。だから、すべての部下に分配されなければならないと、ダビデは考えたのです。

この後も、ダビデはたびたび信仰の分岐点を迎えます。失敗するときは、必ず神さまのみこころを求めようとしなかったり、みこころではないと分かっている方を選んだりしたときです。しかし、そのたびにダビデは悔い改めて、神さまに従う道に戻ってきました。私たちも、あわれみ深い神さまの愛に応えて、神さまのみこころを慕い求め、それに従って参りましょう。

まとめ

私たちにとっても、一瞬一瞬が人生の分岐点です。神さまのみこころを求め、それにかなう方を選び続けましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2015 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.