なぜイエスは死んだのか

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マタイによる福音書26章1〜5節

(2015.3.29)

参考資料

2節の「過越の祭り」は、イスラエルの3大祭りの一つで、出エジプトの出来事を記念して毎年春に行なわれます。イスラエルがエジプトで奴隷状態にあったとき、神さまはモーセを用いて10の災害をエジプトに起こされます。その最後の災害は、エジプト中の人や家畜の初子が死ぬというものでした。しかし、イスラエル人に対しては、小羊を殺し、その血を家の門柱とかもいに塗ると、神さまはその家を通り過ぎるので無事であると約束されました。そして、その災害の結果、エジプト王はイスラエルが約束の地に戻ることを許可しました。

聖書からのメッセージ

イントロ

今週は、イエス・キリストが十字架にかかられたことを記念する「受難週」です。どうして、イエスさまは苦しみを受け、殺されなければならなかったのでしょうか。

1.人間のサイドの事情

異端者

ユダヤ人の指導者の中に、パリサイ人と呼ばれる人たちがいました。律法学者もパリサイ人です。彼らの信仰の特徴は、
  • 聖書(もちろん、この時代は旧約聖書のみです)の他、代々の律法の学者たちが考え出した、様々な口伝の細則(福音書はそれを「言い伝え」と呼んでいます)に対して、聖書と同等、いやそれ以上の権威を与えていました。
    イエスさまは、それを非難し、まるで挑発するかのように、わざと「言い伝え」に反する行動を取られました。
  • ユダヤ人として生まれ、割礼を受けているなら、全員無条件で救われると教えていました(広い門)。
    イエスさまは、そうではなくて、信仰によって新しく生まれなければ、ユダヤ人でも救われないと教えました(狭い門)。
  • やがてダビデの子孫の中から、神であり人である救い主(ギリシャ語でキリスト、ヘブル語でメシヤ)が現れて、イスラエルの敵をすべて滅ぼし、イスラエルに理想的な王国(神の国、御国)を建設し、国民を幸せに導くと信じていました。それは正しい理解です。
そして、イエスさまは、自分こそその救い主だということを、様々な奇跡や教えによって主張なさいました。しかし、パリサイ人の多くは、上述のように自分たちの教えを認めない者が、救い主であるはずがないと考えました。

ということは、「イエスという男は、単なる人間に過ぎないのに、救い主を自称し、自分を神と同等の存在とした。これは、神への冒涜である」ということになります。これは、モーセの律法では死刑に値する罪です(レビ26:15-16)。

政治的危険分子

当時のイスラエルは、ローマ帝国に征服され、属州となっていました。ローマ帝国は、征服した国が従順であるうちは比較的寛容な扱いをし、宗教的にも政治的にもかなりの自治を認めてくれていました。しかし、反逆すれば、徹底的に破壊されることになります。

上述のように、本当の救い主が現れれば、イスラエルの敵を完全に滅ぼして、神の国を地上に建設します。しかし、あのイエスという男が救い主でないのに救い主を自称しているとすれば、その革命は失敗し、代わりにローマ軍が大挙してエルサレムに攻めてくることになるでしょう。そうなれば、今度こそ国が滅びてしまいます。

そういうわけで、あの頭のおかしな男が革命をおっ始める前に殺してしまおうと、指導者たちは考えたのです。

当時、死刑を宣告する権威は、ユダヤ議会にはなくて、ローマから遣わされた総督が握っていました。そこで、ユダヤの指導者たちは、イエスさまを逮捕したあと、ローマ総督ピラトに訴えます。その罪状は、ローマ皇帝に対する反逆罪、すなわち「ユダヤ人の王を自称して、民衆を扇動して反逆しようとした罪」です。ユダヤの宗教的な問題については、ピラトは無関心だったからです。

ねたみの対象

と、これが表面上の理由、建前上の理由です。しかし、イエスさまの裁判を担当することになったピラトは、ユダヤ人の指導者たちの本音を見抜いていました。「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである」(マタイ27:18)。

イエスさまは、指導者たちよりも群衆に人気がありました。ですから、指導者たちはイエスさまを妬み、何としても取り除きたいと願い、訴えたというのです。まったく、身もふたもありませんね。

ねたみは、今自分が持っている立場や関係を奪われるのではないかと感じるとき生じます。「いいなあ」とか「ずるい」とかいう思いも、ねたみと表裏一体です。

そして、ねたみはすぐに憎しみに変わります。また、今のあるがままの自分や自分の環境に対して、不平不満でいっぱいになります。そして、明るい未来を想像することができなくなり、不安感にさいなまれることになります。こうして、ねたみは私たちから喜びや平安を奪います。

私たちも、誰かに対してねたみを抱いて、窮屈な思いをしていないでしょうか?

2.神の事情

自ら進んで命を捨てた

さて、人間サイドから見れば、イエスさまは捕らえられ、裁判にかけられ、罪を捏造され、皆に見捨てられ、そして殺されました。しかし、聖書は、実はそうではないと教えています。イエスさまは、自ら進んで命をお捨てになりました。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:18)

それまで、何度もイエスさまは殺されそうになったり、(殺すために)逮捕されそうになったりしましたが、そのたびに助かりました。そのことについて、聖書は「時がまだ来ていなかったからである」(ヨハネ8:20など)と語っています。

過越の祭りの時を選んだ

では、「時」とはいつのことでしょうか。イエスさまは、過越の祭りの時を選んで逮捕され、十字架につけられ、亡くなりました。十字架に付けられたのは、祭司たちが過越の小羊をほふり、祭壇に血を振りかける時間でした。イエスさまは、過越の小羊として亡くなったのです。

過越の小羊は、自分が死んで血を流すことによって、イスラエルの人々を滅びから救いました。それによって、イスラエルは約束の地に向かって移動を始めました。それと同じように、イエスさまは私たち全人類の罪を、滅び、すなわち罪の呪いから解放します。そして、神の国の祝福を味わうことができるという約束を与えてくださいます。バプテスマのヨハネも、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んでいます(ヨハネ1:29)。

出エジプトの時のイスラエル人には、2つの選択肢が与えられていました。神さまのおっしゃったこと、すなわち、すべての長男が死ぬという警告や、小羊の血を家の入り口に塗れば助かるという約束を信じて実行するか、それとも信じないで何もしないかです。信じた人は守られ、信じなかった人は警告通りのさばきを受けました。

聖書は、イエス・キリストが私たちの罪のために死んで葬られたこと、そして3日目に復活なさったということを信じるだけで救われると教えています(第1コリント15:1-5)。私たちはそれを信じました。ですから救われています。私たちはすべての罪を赦され、その刑罰から解放され、神さまの子どもとされ、この世でも死んだ後でも、考えられない祝福をいただくことができる身分となりました。

もしあなたが、これまで一度も「イエスさまによる救いを信じます」と信仰告白したとこがなかったとしたら、今日がその日でありますように。 「きょう、もし御声を聞くなら、……あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(詩篇95:7-8)。

あなたは神の愛と守りの内にある

神さまには明確な目的と、緻密な計画があります。その一つは、あなたの救いです。あなたは、たまたま救われたのではありません。一時の気の迷いでもありません。あなたは、神さまのご計画の中で、確かに選ばれ、救われました。イエスさまは、あなたを救うために、時を選んで、満を持して十字架にかかってくださいました。ですから、その救いは決して取り消しにはならないのです。

私たちは、今の自分や自分が置かれている環境に対して「大丈夫だ」という自信が無ければ無いほど、他の人に対してねたみを抱き易くなります。しかし、私たちは、イエス・キリストが本気になって救ってくださった、大切な存在です。自信を持ちましょう。

何かができるからとか、何かを持っているからという自信は、自分よりも優れた人が現れると、揺らいでしまいます。そしてねたみに発展するでしょう。しかし、私たちが持っている自信は、神さまが私を愛し、守り、導いてくださっているといるのだから、絶対に大丈夫だという自信です。

まとめ

イエスさまは、あなたを救うために自発的に十字架にかかってくださいました。それだけ、あなたは神さまに大切にされています。

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