くじけないイエス

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イザヤ書42章1〜4節

(2015.4.19)

参考資料

今日の箇所は、マタイ12:15-21で引用されています。

「公義」(1節)とは、神さまの御旨に基づく、神さまと人間との良い関係。あるいは、御旨に沿った社会秩序。

「島々」(4節)とは、文字通りには地中海の島々のことですが、ここでは全世界の異邦の民のこと(マタイ12:21)。

今回の預言をしたイザヤは、イエスさまの時代から、700年も前に活躍した預言者です。

聖書からのメッセージ

イントロ

イザヤは、今回の箇所で、救い主(イエスさま)は、公義をもたらすと繰り返し述べています。公義の意味は参考資料を参照してください。前々回前回取り上げた、シャロームの実現と言ってもいいでしょう。イエスさまは、どのようにして公義を実現なさるのでしょうか。

1.声を上げない……信仰を求める救い主

宣伝するな

2節に「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない」とあります。これはどういうことでしょうか。

ここを引用している、マタイ12:15-17にはこのように書かれています。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると、多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった」

いやしが起こりました。それを宣伝したならば、もっともっとたくさんの人たちがイエスさまの周りに集まってくるはずです。実際、多くの新興宗教では、いやしや社会的成功などを宣伝して人々を集めようとします。それなのに、イエスさまは、逆に宣伝しないようにと注意なさいました。

宣伝しないわけ

マタイ12章は、イエスさまの活動の転換点です。それ以前は、多くの人の前でおおっぴらに奇跡を見せておられたイエスさまですが、12章以降は限られた人たちの前でしか奇跡をなさらなくなりました。そして、奇跡を宣伝しないように命ずるようにもなられました。

イエスさまの行なわれた奇跡は、旧約聖書が登場を預言してきた救い主、地上に神の国を建設する王の中の王であることを証明するものでした。ところが、イスラエルの人たちの多くは、イエスさまが様々な奇跡を行なうのを見ても、イエスさまを救い主だと認めず、イエスさまに従おうとしませんでした。マタイ11章の最後には、「イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた」と書かれています。

出エジプト記や民数記を読むと、イスラエルの民は、毎日のように奇跡を見せられていたのに、神さまに信頼せず、みこころに逆らい続けたということが分かります。もともと信じよう、従おうという気持ちがなければ、たとえ奇跡を見せられたとしても、人はイエスさまを信じ、従うことはないのですね。

求められているのは

奇跡さえ体験できればいい。別にイエスなんていらない。そういう関係は、イエスさまを悲しませることです。イエスさまは、私たちの信仰、私たちの愛、私たちの真実を求めていらっしゃいます。そして、私たちの信仰を通して働いてくださいます。

ですから、イエスさまは奇跡を宣伝するなと命ぜられました。

しかし、あなたは当時の人々とは違います。あなたはイエスさまを信じました。イエスさまを愛しておられます。イエスさまに真実に仕えておられます。ですから、イエスさまはあなたを通してすばらしいことをしてくださいます。それを信じなさいますか?

2.弱った者を見捨てない……赦す救い主

いたんだ葦、くすぶる燈心

ただ、クリスチャンとなった私たちも、様々な問題や誘惑に直面して、振り回されてしまうことがあります。感動も喜びも失い、不平不満が口に出てしまったり、神さまのみこころにかなわないと分かっていること、すなわち罪を、あえて行なってしまうことがあります。ちょっとの間そういう状態になるというだけならまだしも、ずーっとそういう低空飛行を続けてしまうときもあります。

3節に、「いたんだ葦」という表現がありますが、いろいろな状況の中で、杉の木のようにしっかりと自立して立っていられない、今にも折れてしまいそうな精神状態になる時があります。

また「くすぶる燈心」とあるように、今ひとつ情熱に欠けたような鬱々とした気分に毒されることがあります。愛の炎がパーッと燃え上がり、周りの人々を照らして、あのマザー・テレサのように「ああ、この人はさすがクリスチャンだ」と分かるというよりも、よーく見ないと、そこに火が残っているのが分からないような状態で毎日を過ごす、ということもあります。

折らず、消さない

しかし、たとえそんな私たちであったとしても、イエスさまは、決して見捨てはしないと、3節は語っています。いたんだ葦は、折られることはありません。くすぶる燈心は、放っておかれません。

皆さんは、ご自分がいたんだ葦、くすぶる燈心だと思うことがありませんか? こんなことでは、きっと神さまに見捨てられると思ってはおられませんか? イエスさまは、決してあなたを見捨てたりなさいません。十字架にかかるほどに、私たちのことを愛しておられるのです。

3.決してあきらめない……必ず完成させる救い主

公義が実現するまで

私たちはイエスさまががっかりするような失敗を何度も繰り返します。少なくとも私はそのような人間です。もう、いい加減、さじを投げられても仕方がない者です。しかし、イエスさまは私をシャロームで満たし、私を通してこの世にシャロームを実現なさるというご計画をあきらめていらっしゃらないようです。

イエスさまは、私たちをたださばかないというだけではなく、私たちが神さまと揺らぐことのない関係を作り上げるまで、そして私たちの内側や、私たちの住む世界が平安や喜びや感動に満たされるまで、決してあきらめません。

悪魔もこの世も、人がイエスさまを信じたり従ったりしないように、誘惑したり迫害したりするでしょう。しかし、イエスさまは決して衰え果てたりなさらず、最終的に勝利をし、みこころにかなう世界を実現なさいます。「彼は衰えず、くじけない」(4節)

たとえ自分が嫌いでも

私たちは、自分のことが嫌いになることがあるかもしれません。自分に期待なんかできないかもしれません。しかし、それでもいいのです。イエスさまがあきらめていらっしゃらないのですから。

私たちも、時々でいいから、イエスさまが私たちのことをあきらめていらっしゃらないという事実を、思い出したいものです。そのたびごとに、私たちの葦の傷はいやされ、炎が大きくなっていきます。礼拝は、そして日々の聖書の学びや祈りは、決してあきらめないイエスさまの愛を思い出すためにあります。

まとめ

イエスさまは、私たちを決してあきらめません。あなたはイエスさまに、どんなお働きを期待しますか? そして、イエスさまのあきらめない愛を思い出すために、あなたにできることは何ですか?

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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