私たちが枕する所

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ルカによる福音書9章57〜58節

(2015.5.31)

参考資料

この時のイエスさまは、ガリラヤで活動していらっしゃいました。そして、「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」ました(ルカ9:51)。そして、ガリラヤから南下してサマリヤを通り過ぎたときに起こったのが、今回の話です。

聖書からのメッセージ

イントロ

キリスト教の中心は、前向きな考え方を身に付けるとか、良い生活習慣を身に付けるとかいうようなものではなく、イエス・キリストとの人格的な出会いと交わりです。そして、今日の箇所で、イエスさまは3人の人と話をし、私たちがイエスさまについて行くにあたっての心構えを語っておられます。今日はその1人目との会話を取り上げます。

1.犠牲を覚悟しなさい

枕のたとえ

3人のうち、最初に登場した人物は、自分からイエスさまに従いたいと申し出ました。すると、イエスさまは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」とお答えになりました。

この「枕する」という言葉は、ヨハネ19:30にも登場します。「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった」。ここの「頭をたれて」、すなわち十字架にかかって亡くなったことを指す言葉と同じです。

イエスさまは、野宿を繰り返すような厳しい生活を送っておられました。そして、ようやく枕できたのは、十字架の上でした。そのイエスさまについていくということは、王宮で毎日食っちゃ寝の生活ができるということは期待できません。自分もイエスさまと同じような生活をする覚悟が必要でした。イエスさまは、第一の人物に対して、その覚悟があって弟子入りを申し出たのですかと尋ねたのです。

私たちの払うべき犠牲

そして、イエスさまは私たちにもその覚悟を尋ねておられます。

クリスチャンになって救われるのは、ただ信じるだけです。イエスさまが自分の罪を赦すために十字架で死なれ、復活なさったと信じる以外、何の行ないも犠牲も必要ありません。

しかし、クリスチャンであり続け、イエスさまが喜ばれる生き方を始めたり、それを続けたりすることには、多かれ少なかれ犠牲が伴います。
  • 「信仰を持つなんて、弱い奴のすることだ」などと、他の人にバカにされるかも知れません。
  • 良い行ないをするために、時間やお金や体力や知恵を余分に失わなければならないかも知れません。
  • 礼拝式に出席するために、「もうちょっと寝ていたい」とか、「遊びに行きたい」とか、「家のことをあれこれやっておきたい」とかいう、至極まっとうな願いを捨てなければならないかも知れません。
  • 誰かに嫌なことをされたとき、その人に怒りをぶつけたり復讐したりするという「当然の権利」を、捨てなければならないかも知れません。
あなたも、イエスさまが喜ばれる生き方をしようとしたとき、いろいろな困難を予想したり、実際に体験したりして、「嫌だなあ、やめたいなあ」と思ったり、実際にやめてしまったりしたことがありませんか?

2.犠牲にまさる祝福に目を留めよう

なぜ先輩たちは従ったのか

誰だって、苦しいよりは楽な方がいいし、痛いよりは痛くない方がいいでしょう。

しかし、多くの信仰の先輩たちは、犠牲を厭わずイエスさまに従い尽くしました。そして、イエスさまがなさったように、きよい生き方、愛に満ちた生き方、敬虔な生き方をまっとうしました。

この日本でも、戦国時代や江戸時代、あるいは戦前・戦中などの時期、様々なひどい迫害があって、命を奪われることもありましたが、それでも信仰を守り通した人たちがたくさんいました。

一体なぜそんなことができたのでしょうか。ここでは2つの理由を挙げてみましょう。

犠牲の先にある祝福を見ていた

一流、あるいは一流を目指すスポーツ選手や音楽家は、誰でも厳しい節制と訓練を自分に課します。それは肉体的にも精神的にも大変な犠牲です。しかし、一流選手や一流演奏者は、どんなにつらくても訓練を怠ることがありません。

それは、「その犠牲の先にあるもの」を見据えているからです。すなわち、大会で優勝することであったり、すばらしい演技や演奏で観客を感動させることであったり、自分の限界を超えるという喜びであったり、すばらしいライバルと力を競い合うという充実感であったり、それぞれに用意されている栄冠を見据えています。彼らは、その栄冠を手にするためには、相応の犠牲が必要だと知っているので、あえて厳しい訓練をするのです。

聖書にもこう書かれています。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(第1コリント9:25)

イエス・キリストの十字架の犠牲の先には、私たちの救いの道が開かれていました。あなたがイエスさまの命令に従って、犠牲を払って他の人を愛する生き方をしたり、きよい生き方を貫いたり、敬虔な生活を心がけたりするならば、天国においてすばらしい報いがあなたを待っています。

また、天国だけでなく、生きている今も、様々な栄冠を受け取ることができます。たとえば、誰かのお役に立てているという貢献感や、神さまが行なわれる偉大な働きを、この教会や、世界中の教会の兄弟姉妹たちと共に担わせてもらっているという所属感、本来の自分の人生を生きているという充実感などです。

神と共にある喜びを味わっていた

そればかりではありません。イエスさまの弟子たちや歴代の信仰者たちは、そもそもイエスさまのことが大好きだったため、イエスさまに従うことそのものに、無上の喜びを感じていました。だから、多少の犠牲は犠牲ださえ思わなかったのです。

誰かを好きな人がいると、その人に喜んでもらうためなら、時間を使ったり、お金を使ったり、体力を使ったりすることは苦になりませんね。むしろ、そうすることが喜びでさえあります。それと同じことです。

私たちは、天の神さまに逆らって罪を犯して、神さまの尊厳やお心を深く傷つけました。しかも、その償いさえもできません。しかし、神さまはそんな私たちを一方的に赦し、子どもとして愛そうと決めてくださいました。そして、私たちが神さまの子どもとなるために、イエスさまはご自分の命を犠牲にしてくださいました。それほどまでに私たちは大切にされ、愛されています。

私たちは、聖書を読み、祈り、教会の集会に参加し、信仰書を読むなど、様々な方法を通して、自分がどんなに愛されているかということを、もっともっと知らなければなりません。それが、私たちの地上での生き方を方向付けるのです。

まとめ

イエスさまの愛をもっともっと味わいましょう。それによって、犠牲を払ってでもイエスさまに従いたいという思いを、育てていただきましょう。

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