もう振り向かない

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ルカによる福音書9章61〜62節

(2015.6.14)

参考資料

鋤(すき)は畑を耕すためのスコップ状の農機具ですが、ここでは牛などに引かせるために使った大型のものです(犂。図解はこちら)。人力で耕すよりはるかに楽ですが、耕す深さを調整したり、まっすぐ耕したりするには、人が上手に手加減をしなければなりません。

聖書からのメッセージ

イントロ

イエスさまの弟子候補生、3人目との対話です。今回も、イエスさまについて行くに当たっての心構えを学びましょう。

1.今を生きよう

鋤のたとえ

エジプトは、毎年ナイル川が氾濫して、柔らかく肥沃な土が畑を覆うため、農耕に適していました。しかし、イスラエルでは人が硬い土を掘り起こしてやらなければなりません。それは大変な作業でしたが、鋤を牛やロバに引かせるやり方が始まると、収穫量が一気に増大しました。

ところが、鋤を操るのは難しく、均一な深さでまっすぐ掘り起こすのには熟練の技を要します。よそ見をしながら、片手間にできる作業ではないということです。グラウンドに白線を引いたことがある方はお分かりだと思いますが、正しく線が引けているかどうか気になって後ろを振り向いていると、かえって上手に引くことができません。

いったん鋤を使い始めたら、よそ見をしないでまっすぐ前を向いて進んでいかなければならないのです。今回のたとえの表面的な意味は、そういうことです。

後悔しても始まらない

もちろん、イエスさまは農夫としての心構えを語っているわけではありません。これはイエスさまに従おうとしている私たちの、日々の生き方についての話です。

「手を鋤に付けてから、うしろを見る」とは、いったんこの道を進もうと決めたあとで、「こうすれば良かった、ああすれば良かった」と後悔したり、他の道もあったんじゃないかと迷ったりすることです。そうしてはいけないと、イエスさまはおっしゃったのです。

私たちは過去を変えることはできません。たとえ間違った決断をし、間違った選択をしたのだとしても、それをどんなに悔いても、悲しんでも、他の人に八つ当たりしたとしても、その選択が無かったことにはなりません。私たちが変えられるのは、いつも今の行動だけです。

たとえば結婚は、その時の気分や勢いで決めるのではなく、様々な要素を慎重に検討した上で判断すべきです。しかし、いったんこの人と生涯を歩もうと決めて結婚したならば、あとになって「この人とじゃなく、別のあの人と結婚していたらどうなったかしら」などと考えても、どうしようもありません。むしろ、今の生活に不満がたまる一方です。これは結婚に限った話ではなく、あらゆることについて言えることでしょう。

過去を振り返ったり反省したりするのは、「これからどうするか」を考える材料にするためです。いたずらに嘆き悲しむためであってはなりません。

あなたは、もう取り返しの付かない過去の出来事について、あれこれ悲しんだり、落ち込んだり、絶望したりしていませんか? その代わりに、今あなたがしなければならないことは何ですか?

一心に従い続ける

特にイエスさまは、ここで神の国の話をしておられます。私たちの信仰を話題にしていらっしゃるということです。

信仰は迷信や盲信ではありませんから、本当に信じたり従ったりする価値があるかどうか、じっくりと考え、理性的に判断すべきです。しかし、いったんイエスさまに従うことを決めたなら、あとはその決断を後悔することなく、一心に従っていくべきだということを、このイエスさまのたとえは教えています。

2.振り返らない信仰生活

別れのあいさつもダメなの?

さて、今回の話に戻りましょう。3番目の人物は、イエスさまが1番目の人物に語られたように、イエスさまに従う道が、快適な船旅ではなく、犠牲が伴うことを覚悟していました。また、2番目の人物に語られたように、神の国のメッセージを言い広めることが、何にも増して大切なことだと、きちんと優先順位を定めることができました。ですから、はっきりと「あなたに従って参ります」と宣言することができたのです。

しかし、その前に家族に別れのあいさつをしたいと願います。それに対して語られたのが、鋤のたとえです。要するに、イエスさまは彼の願いを望ましくないものとして否定なさったのです。

旅立ちの前に、大切な家族に別れのあいさつをしてきたいというのは、まっとうな願いではないでしょうか? 2番目の人物のように、従いたくないための言い訳をしたわけではないのですから、イエスさまだって許可してくれても良さそうなものです。

実際にやったらどうなったか

この問題を考える前に、どうして第3の人物が家族に別れを言いに行きたいと願ったのか、その心の奥底を探ってみましょう。おそらく、「家族に、自分がやろうとしている働きを理解し,応援してもらいたい」という願いがあったのでしょう。

それはもっともな願いですが、家族が信仰を持っていなければ、おそらく理解はされません。むしろ、応援どころか、全力で反対されることになるでしょう。

ずっと前のことですが、ある教会の婦人会に呼ばれて行ったとき、「もしあなたのお子さんが海外宣教師になると言い出し、教会のリーダーたちも確かに神さまもそれを望んでいらっしゃると認めたとしたら、あなたは賛成しますか?」と尋ねたことがあります。そこにいたのはほとんどがクリスチャンのご婦人方ですが、「喜んで送り出します」とお答えになったのは、半分いませんでした。

苦労して開拓伝道をしておられる牧師さんの姿を見ているからでしょうか、かわいい子供にそんな苦労をさせたくないというわけです。まして海外宣教に出てしまえば、どんな苦労が待っているか分かりません。そして、何年もの間会えないでしょうし、もしかしたら今生の別れになるかもしれません。また、これははっきり口には出しませんでしたが、苦労して育てて、大学までやって、ようやくこれから投資回収、老後も安泰だと思っていたのに、牧師なんて儲からない仕事に就けるのは嫌だ……なんて人も、もしかしたらいたかもしれません。

クリスチャンの親ですらそうなのですから、まだ信じていない親に理解してもらえるはずがありません。私も、故郷で教師になることが決まっていたのに、大学卒業直前に牧師になると言い出したときには、未信者の両親からそれはそれは強烈に反対されました。それは子どもとしては心が痛いことです。

この3番目の人物も、もし家族に別れのあいさつに帰ったとしたら、おそらく家族は全力で反対したことでしょう。そして、彼の心は揺れ、あくまでも可能性の話ですが、結局家族の願いを優先させてしまったかもしれません。

どちらか一方しか選べないとき

前回も学んだ通り、聖書は家族を大切にするよう教えています。ですから、家族に別れのあいさつをすることそのものが問題なのではありません。ここでイエスさまが問題にしておられるのは、イエスさまに従うか、それとも別の道を選ぶか、二つに一つを選ばなければならない場合に、どちらも手放したくないというどっちつかずの思いを持つことです。

二者択一を迫られていなければ、その時その時の状況に合わせて、家族を大切にする行動を選ばなければなりません。まだ信仰を持っていない家族を大切にしないことは間違いです。

しかし、イエスさまを選ぶのか、家族を選ぶのかという、ギリギリの選択を迫られることもあります。その場合には、私たちはすでにイエスさまに従う決心をしたのですから、その決断を押し通さなければ鳴りません。たとえ、家族を悲しませることになっても、です。

私も、牧師になると言い、家族の大反対を受けたとき、やはり心が揺れました。なんとか神さまの召しにも逆らわず、家族も悲しませないような、そんないい手はないものかと、あれこれ考えるのですが、そんな都合のいい手があるはずもなく、とても苦しい1ヶ月を過ごしました。しまいには、このまま寝ている間に心臓麻痺で死んだら、どちらも選ばなくていいのにと、本気で思ったほどです。

そんなときに聖書を読んだところ、今回の箇所が示されてしまいました。さらに、次のみことばが追い打ちをかけます。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:34-38)


どちらか一方を捨てて、もう一方を選ぶしかないことを悟った私は、ついに「分かりました。家族ではなく、あなたの命令に従う方を選びます」と宣言し、故郷の教育委員会に就職辞退の手紙を出したのでした。

そして、今に至ります。「あの時、教師になることを選んでいたらどうだったんだろうか」と思うことも、正直ありました。伝道が思うように進まなかったり、教会の方たちとの関係がうまくいかなかったりしたときには、特に。しかし、それでもやっぱり、最後には「この道は間違いなかった」というところに落ち着きます。ですから、福島で開拓伝道を始めてからは、そんなことを考えるのもバカバカしくなりました。

あなたも同じです。たとえ伝道者になるよう命ぜられなくても、私たちが真剣にイエスさまに従っていこうとすると、この世の価値観とぶつかってしまい、何かを捨てるよう迫られるときが必ずやって来ます。そんなとき、あれもこれも手に入れようと欲張らず、一心にイエスさまに従う方を選びたいものです。それが、神の国の祝福をいただく秘訣です。

赦しの神

なお、聖書の神さまは赦しの神さまです。もし、あなたがこの点で過去失敗したのだとしても、イエスさまはご自分の血によって赦してくださいます。

ですから、昔の失敗をいつまでも引きずるのはやめて、あらためて正しい決断をし直しましょう。第1のポイントで学んだように、私たちが変えられるのは、問われているのは、いつも今です。今、あなたは何を選ぶよう迫られていますか?

まとめ

あれもこれも手に入れようと欲張らず、イエスさまに一心に従いましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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