おなじみの感情

トップページ聖書のメッセージ集2015年 > このページ


詩篇94篇1〜23節

(2015.6.28)

参考資料

3節などの「悪者」は、ここでは、イスラエルを攻める外国のことだと思われます。

13節の「わざわいの日」は、世の終わりの、神さまが地上をさばき、すべての悪を滅ぼされる時のこと。

22節の「避け所の岩」は、嵐の時に穴の中に身を隠すことができる岩のこと。あるいは海上で嵐に遭った時、舟を回り込ませて強風を避けることができる岩場のこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

この詩篇の記者は、敵の存在に心を乱されていました。人間関係の問題はどの時代のどの国の人にとっても大問題です。19節に書かれているように、たとえ敵がいたとしても思い煩いが取り除かれ、平安が与えられることを、この箇所は約束しています。

1.この詩の構造

6つの区分

この詩の内容は、4節ずつ6つに区切ることができます(ただし第1区分は3節)。
  • 第1区分(1-3節)は、神さまへの叫びです。自分や同国人を苦しめる敵に、神さまが早く報復してくださるようにと求めています。
  • 第2区分(4-7節)は、敵の行ないです。彼らは神の民であるイスラエルを苦しめていました。しかも、「イスラエルが信じている神は、イスラエルが苦しんでいるのに気づきもしないから、助けることができない」とあざけっていました。
  • 第3区分(8-11節)は、敵のあざけりに対する返答で、聖書の神さまは現状にちゃんと気づいておられると語っています。
  • 第4区分(12-15節)は、神さまは、ご自分に信頼し従う者たちが苦しんでいるのを知っておられるだけでなく、必ず助けの手をさしのべるという宣言です。
  • 第5区分(16-19節)は、詩人個人の信仰告白です。「私」という一人称が使われているところに注目しましょう。彼は一般論としてではなく、「自分はこう信じる」と信仰告白をしました。
  • 第6区分(20-23節)は、神さまは悪者の味方ではないから、悪者を最終的に滅ぼされ、信頼する者をお助けになるという宣言です。

平安の理由

こうして、敵に悩まされ、思い煩っていた詩人の心の内に、平安や希望がわき上がってきました。

詩人は、神さまが信じる者の苦しみをご存じであることと、必ず助けの手をさしのべてくださることを信じました。それが、今まだ苦しみが残っているにもかかわらず、思い煩いから解放された理由です。

ただ、どんなに聖書の神さまが、ご自分の民の苦しみを知り、助けてくださる方であったとしても、神さまが私のことを「ご自分の民」と認めてくださっていなければ、意味がありません。

ローマ8:31にこのように書かれています。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」

もしも、神さまが私の味方であるなら、私たちは安全です。逆に言えば、神さまが私の味方でないなら、私は安全ではありません。要するに、安心のポイントは、「私たちと神さまがいい関係にある」ということです。

正しい者とは

悪者は神さまの助けを受けることができず、一時的には繁栄しているように見えても、最終的にはそれにふさわしい報いを受けると聖書は教えます。一方、正しい人は、神さまの助けを受け、一時的には弱っているように見えても、最終的に勝利をいただくと聖書は教えます。それが、詩人の希望でした。

では、正しい人とはどういう人のことでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」」と宣言しています(ローマ3:10-12)。これは、自分の行ないの正しさによって神さまに受け入れられる人はいないという意味です。 この話をお読みください

その代わり、神さまが一方的に罪を赦してくださり、恵みによって受け入れてくださる道が用意されています。自分の行ないによって認められようとする傲慢さを捨て、神さまの愛と恵みに信頼する人、それが聖書が言う正しい人です。

この詩の第5区分で、詩人は個人的な信仰告白をしています。この詩人は、自分の正しさを示すことで神さまの助けをいただこうとはしませんでした。彼は、神さまの恵みに希望を置きました。18節、「もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、【主】よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように」

2.もう思い煩わない

思い煩いというテクニック

それでは、私たちにとっての敵とは誰でしょうか。私たちを思い煩わせるものは何でしょうか。

現代日本は、聖書時代に比べると遥かに豊かですが、それでもアンケートを採ると、たくさんの人々が「もう少しお金があれば楽になるのに」と考えているそうです。経済的なことばかりではありません。仕事のこと、勉強のこと、将来のこと、人間関係のこと、子育てのこと、健康のこと……私たちの周りには、不安の種、不満の種、イライラの種、心配の種があちこちに転がっています。

例えば、高速道路で事故が発生し、現場検証のために全く車が前に進まなくなった時、皆さんはどんな気分になりますか? ある人は腹を立てます。ある人は悲しくなります。ある人は自分を責めます。別の人は笑ってしまうかもしれません。そして、渋滞の時に感じる感情というのは、人生のいろいろなストレス場面で感じる、おなじみの感情ではないでしょうか。

心理学者のアドラーは、感情には目的があると言いました。たとえば、不機嫌な人は、「人を近づけたくない」という目的のために、不機嫌を使っているのだ、と。彼は、誰かが、あるいは何かが自分を不機嫌にさせたとは考えず、自分がそういう目的のために不機嫌な気分を選んだのだと考えました。人生は他人や状況次第ではなく、主体的なものだととらえたのです。

私たちは、自分にとって都合が悪い人や状況に直面したとき、相手や状況をコントロールしたいという思いが生まれ、そのために感情を使うことがあります。渋滞で何かの感情を抱くのは、無意識のうちに「そのような気分になれば、突然、魔法のように車が進み始めるだろう」と思っているからでしょう。

また、誰かに対して怒りを感じたり、悲しみを感じたりするのは、そうすることで相手を思い通りに動かしたいと思っているからです。

役に立たないテクニック

しかしながら、どんなに車の中で私たちがイライラしても、悲しんでも、自分を責めても、心配しても、現場検証のスピードは上がりませんし、車線をふさぐように横転したトラックは撤去されません。怒りや涙を使うことで一時的に相手を思い通りに動かすことができたとしても、かえって人間関係がおかしくなったりします。嫌な感情は、人や状況を変えるのには、ほとんど役に立たないのです。

役に立たないのに、どうして私たちは、感情を使って人や状況をコントロールしようとするのでしょうか。それは、子どもの頃からそのように訓練されてきたからです。
  • 子どもの頃に、かんしゃくを起こしたら、親が根負けして自分の思い通りに動いてくれた。そんなことが繰り返されると、自然に「かんしゃくは役に立つ」と学習するでしょう。
  • 普段は厳しく冷淡に扱われるのに、泣いた時だけ周りの人が優しくしてくれる。そんなことが繰り返されると、涙を使って状況を変えようとする態度が強化されるでしょう。
  • 何かにつけて、周りの大人たちから非難罵倒され、時に虐待されていると、それ以上の攻撃をかわすために、早めに「ごめんなさい」と、自分を悪者にする癖が付いてしまい、大人になってからも自己卑下を繰り返すかもしれません。
怖いのは、特定の感情を使ってコントロールするという態度が癖になって、その感情があまりにも「おなじみ」になってしまうと、「その感情を感じるために」、様々な言動をするようになるということです。例えば、自己卑下が癖になっている人は、無意識のうちに周りの人々を怒らせるような言動を繰り返し、実際に怒られ、自己卑下を感じてしまう……そういうことをするかもしれないのです。

これらは、小さかった時、自分の家や学校という特殊な環境では役に立ったテクニックかもしれません。しかし、残念なことに、現在の状況ではほとんど役に立たなくなっています。

新しいテクニック

ですから、私たちは新しいやり方を覚え、それを実践しましょう。今回の聖書箇所は、私たちに何を教えてくれているでしょうか?

まずは思い煩いなどの嫌な感情を手放そうと決意しましょう。

次に、代わりに心配をしてくださるお方に、人生をおゆだねしましょう。天の父なる神さまが、私たちのすべての必要をご存じであり、私たちに最も良いものを与えてくださると信じることです。

そして、この詩篇の詩人が歌ったように、イエスさまの恵みを信じつつ、「私はあなたの助けを信じます」と宣言しましょう。

まとめ

神さまがあなたを守り、助けてくださいますから、いたずらに思い煩うのはやめにしましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2015 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.