真の平和

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マタイによる福音書10章34〜39節

(2015.7.5)

参考資料




聖書からのメッセージ

イントロ

6月14日のメッセージで、私が牧師になる決心をした時の話をしました。その時、この聖書のことばが背中を押してくれたということを申し上げましたが、これは私だけでなく、皆さんにとっても大切な教えです。

それにしても、イエスさまは時々どきっとするようなことをお話しなさいますね。今回もそうです。しかし、イエスさまは、私たちを脅したり、追いつめたりするために、このようなことを語っておられるわけではありません。イエスさまが、ここで言わんとしておられることは、何なのでしょうか。

1.わたしを何よりも愛して欲しい

強調表現

ユダヤの文化では、時々極端な表現をすることがあります。たとえば、旧約聖書に登場するイサクの子どもたち、エサウとヤコブ。二人は双子で、エサウの方が兄でしたが、神さまは、弟ヤコブの方を選び、アブラハム→イサクと受け継がれてきた、神の民としての祝福と使命を継承させました。

そのことを聖書は「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ9:13)と表現しています。これは、「エサウを憎んだ」というところがポイントなのではなく、そう表現できるくらい、ヤコブのことをめちゃくちゃ愛したという、一種の強調表現です。

今回の箇所も同様です。聖書は、両親や年長者を敬い、子どもたちを慈しむことを求めています。この箇所は、「家族と争う」「家族に逆らう」「家族をないがしろにする」ということがポイントなのではありません。ここでイエスさまは、「そう表現できるくらい、わたしのことを愛して欲しい」とおっしゃっておられるのです。

わたしよりも

要するに、家族を愛し敬うことは大切なことだけれど、もっと大切なことがある。優先順位を整理しなさい、ということです。

37節の「わたしよりも、父や母を愛する者は……」の「父や母」ところに、他のものを入れることもできますね。夫、妻、恋人、友人。あるいは、趣味、夢、仕事、勉強、お金、家……。イエスさまは、39節では「いのち」という言葉をお入れになりました。

これらはどれもすばらしいものです。価値がないとか、なくていいとかおっしゃっているのではありません。しかし、それらのものよりも、もっとわたしを大切にして欲しいと、イエスさまはおっしゃるのです。

基準はどこに?

多くの場合、私たちは自分の行動を、以下のような基準で選んでいます。
  • 私がいいと思うことをしよう。
  • 私が好きなことをしよう。
  • 私がつらい思いをしなくて済むことをしよう。
  • 私にとって都合がいいことをしよう。
イエスさまを愛し、イエスさまを何よりも優先させるということは、次のような基準で決めるということです。
  • キリストがいいと思われることをしよう。
  • キリストが喜ばれることをしよう。
  • キリストを悲しませないことをしよう。
  • キリストのすばらしさが、自分にも他の人にも分かるようなことをしよう。
あなたはこれまで、どのような基準で自分の行動を選んできたでしょうか。今あなたが選ぼうとしている行動は、本当にイエスさまを大切にする行動でしょうか。それをいつも考えながら行動しましょう。

2.本当の平和を味わって欲しい

窮屈じゃない?

私たちに与えられている時間もエネルギーも有限です。思いつきで行動したり、欲や感情にまかせて行動していたら、多くの無駄を犯すことになります。人生の優先順位を確立し、順位の高い方から行なっていくというのは、とても大切なことです。

それは分かりますが、何にもましてイエス・キリストを優先させるというのは、何だか奴隷みたいで窮屈だと感じる方もおいでかもしれません。しかし、イエスさまがそのようなことをお求めになるのは、私たちのためです。私たちが、真の平和を味わうためなのです。

今日の箇所で、確かにイエスさまは、私たちがイエスさまの奴隷になることを求めておられます。それは、一見窮屈な道に見えますが、もし私たちがイエスさまの奴隷でなかったら、別の何かの奴隷だということです。悪魔の奴隷、罪の奴隷、欲望の奴隷、恐れの奴隷です。

「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です』」(ヨハネ8:34)

神さまを無視して好き勝手に生きるというのは、一見自由そうですが、決して本当の自由をもたらすことはありません。パウロは、そんな自分の姿に絶望して叫びました。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。……私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。……私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:15,19,24)

しかし、続けてパウロは言います。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7:25)。すなわち、イエスさまが、私たちを死のからだ、すなわち罪の奴隷状態から解放してくださるのだ、と。

問題が真の平和につながる

6月16日にもお話ししましたが、私は大学4年の冬に、教師になる道を捨て、伝道者になることを決心しました。既に故郷の小学校に採用が決まっていましたので、当然周囲から(教会は別として)大反対を受けました。なかなか最終決断ができないでいた時、このみことばが示されました。その時、「あなたは、誰の目を気にして生きているのか」と、神さまから尋ねられた気がしました。

私は、小さい頃から、親や教師や社会の目を気にしながら生きてきました。この当時は自覚していませんでしたが、今から振り返ると、どうも私は基本的に、「自分はこの世に存在する価値のないダメ人間だ」と思っているようです。そして、「周囲の人々からほめられ、認められた場合は、その限りではない。存在を許される」と思っているようなのです。

逆に、人から非難されるということは、「存在の価値なし」と宣言されているようなもので、私にとっては死刑宣告に等しいものです。ですから、私はいつも周りの目や声を気にしながら、一生懸命がんばって、非難されない立派な自分、完璧な自分を演じようとしていました。

その結果、くたくたに疲れ果てていました。社会的にはしっかり適応しながら、何とも言えない生きづらさを感じていました。自分らしさを生きていないという感覚がいつもありました。人と一緒にいると疲れるので、できれば一人でいたいという思いが強くありました。周りの目を気にして生きていたことで、表面的な平和は保たれていました。しかし、私の心の中には、平安がなかったのです。

神さまは、そんな表面的な平和を台無しになさいました。自分の存在価値がかかっているわけですから、本当に苦しかった。しかし、その一時的なごたごたのなかで、「わたしはあなたを愛し、受け入れている。誰があなたに『お前はこの世に存在する価値がない』と言ったとしても、わたしはあなたを認める。何を達成したとか、何かの基準を超えたとか、そういうことではなく、今そのままのあなたを、わたしは愛している」と、神さまが語っておられるのだということが分かってきました。

今も、心の奥底には、自分には価値がないという思いが、カスのように残っています。そして、つい周りの批判を恐れて引きこもりそうにもなります。失敗したときには言い訳して、「自分は悪くない」と証明したくなります。しかし、ずいぶん自分らしく生きられるようにもなってきたと思います。立派な自分も、失敗した自分も、信仰的な自分も、疑っている自分も、そのまま出せるようになってきました。出さないよう押さえることもありますが、それは自分を守るためではなく、相手が受け止めきれないと判断したとき、つまり相手のためです。

この教会が、「信仰的ではない自分」「従いきれない自分」「反発する自分」「病んでいる自分」を責めて、叩いて、直して、別の自分になろうとするるのではなく、むしろ、ことさらにそういう自分を大切にしようとするのは、イエスさまが与えようとしておられる、真の平和を求めているからです。信仰的であってもなくても、病んでいてもいなくても、今そのままで神さまに愛されているという平安、喜び、感動を味わいたいためです。

そして、それこそが、よりきよくなりたい、より良い生き方がしたい、より生産的な生き方がしたい、より神さまに従いたいという原動力になります。

すべてあなたのため

神さまは、時にあなたの表面的な平和を粉々に打ち砕くような真似をなさることがあります。仕事がうまくいかなくなったり、人間関係がおかしくなったり、経済的な問題が降りかかったり……。

しかし、それは神さまがあなたのことを嫌いになったからでも、ひどい目に遭わせようとしておられるからでもありません。神さまはイエス・キリストをお与えになるほどに、あなたを愛しておられます。そのつらい体験も、あなたがよりすばらしい人生を手にし、神さまとより親密な関係を育てていくのに必要だから与えられたのです。

問題が来なければ、私たちは自分を振り返ることがなかなかできません。問題が起きた時は、私たちは自分が何を優先して生きているか、何にとらわれて生きているか、何を恐れて生きているか、何を大切にして生きているかに気づくチャンスです。

イエスさまは、その問題を通して、あなたに真の平和、本当の平安を与えたいと願っておられます。その問題が、あなたにどんな平和を与えてくれるか、考えてみましょう。

まとめ

イエスさまは、何よりもご自分のことを愛して欲しいと願っておられます。それには苦しみが伴うこともありますが、それによって、あなたは真の平和、本当の平安を味わうことができます。

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