神の力は弱さのうちに現れる

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コリント人への第2の手紙12章1〜10節

(2015.7.12)

参考資料

2節の「第三の天」は、神さまや天使が住んでいる異次元の場所。いわゆる天国のことです。これに対して、「第一の天」は鳥や飛行機が飛ぶ空(大気圏)、「第二の天」は天体が運行する宇宙空間を指します。

4節の「パラダイス」は、信者の魂が死んだ後に行く安らぎの場所。これもいわゆる天国のことです。

聖書からのメッセージ

イントロ

「これさえなければ、もっと○○なのに」と思うことはないでしょうか。実は、そういう状況の中にこそ、神からのあふれる宝があるのです。パウロは、どうにもならない問題を通して、あふれる祝福を刈り取りました。

1.パウロの問題

肉体のとげ

パウロは、自分が悩まされている問題のことを「肉体のとげ」(7節)と呼びました。具体的に何を指すのかということについては、私は10節に「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています」と書かれているところから、迫害のことだろうと想像しています。しかし、他にも、眼病、てんかん、マラリア、教会内部からの攻撃など、様々な説があります。

それが何であれ、パウロは「これさえなければ、もっと伝道・牧会活動が充実して行なえるのに」と思ったことでしょう。そういう苦しみを与えるものだということです。

必死の祈り

パウロは、問題の中でいたずらに嘆いたり、不平を鳴らしたりすることに時間を費やしませんでした。神さまが全能の力を持って介入してくださり、この大変な問題を取り除いてくださるよう、必死で祈りました。「三度」というのは、ユダヤ人の表現で「何度も何度も」という意味です。

しかし、パウロの必死の祈りに対して、神さまはノーとおっしゃいました。

神の答え

神の子であるクリスチャンの祈りに、神さまは必ず答えてくださいます。イエスさまもこのように約束しておられます。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」(ヨハネ16:23-27)


ただし、祈りの答えられ方は様々です。次のように分類できるのではないでしょうか。
  • 祈りの中で願ったことが、願ってすぐに、願った通りにかなえられる。
    もちろん、祈りっぱなしでなく、感謝も忘れないようにしましょう。
  • 願いがかなうまで、ずいぶん待たされる。
    イライラしそうですが、神さまは最も良いタイミングを知っておられます。あきらめないで祈り続けましょう。
  • 願ったものよりも、一見劣ったものが与えられる。
    ガッカリしそうですが、神さまは最も良いものを私たちに下さいます。今与えられたものを感謝して受け取り、精一杯活用しましょう
  • 願ったものよりも、良いものが与えられる。
    それはうれしいことですが、このようなことが続くならば、もしかしたらあなたの祈りは小さすぎるのかも知れません。もっともっと大胆に祈ってみましょう。もちろん、上述の3番と、この4番の違いは、単に私たちの見方・感じ方の問題です。神さまは常に最善をなさいます。
  • 願いがまったくかなえられない。
    これも神さまからの答えです。
神さまがパウロの願いをそのままかなえなかったのは、その力がなかったからでも、パウロをそれほど愛していなかったからでもありません。肉体のとげが取り去られない方が、よりすばらしい結果を刈り取ると知っておられたからです。

神さまは私たちよりもはるかに知恵のあるお方です。そして、最も良いものを、最も良いタイミングで私たちに下さるお方です。

2.弱い者の上にキリストの力が現れる

高ぶらないため

それでは、パウロの場合、どうして肉体のとげを取らないことが、彼の祝福になったのでしょうか。

ある時、パウロは天国の幻を見せられました。そして、神さまからの啓示の言葉を聞きました。

パウロが体験したすばらしい経験は、神さまが一方的に与えてくださったものであり、パウロ自身は誇ることができません(4節)。しかし、こういう特別な経験をすると、まるで自分が何か特別な者にでもなったかのように高ぶってしまうのが人の常です。

神さまは、傲慢を格別に嫌われます。傲慢は「私には神は必要ない。私は私だけで何とかやっていける」という不信仰な態度につながるからです。傲慢は、神さまからの救いを素直に受け取る謙遜さとは、真逆の態度です。イエスさまが命がけで与えてくださった救いを台無しにするのが傲慢です。

パウロが傲慢の罪に陥って、その人格や働きを台無しにしてしまうことがないように、神さまは「肉体のとげ」という問題をお用いになりました。パウロがそれによって弱くなり、神さま抜きでは何もできない存在なのだということを、常に体験的に知ることができるようにするためです。「肉体のとげ」は、パウロにとっては嫌で辛いものでしたが、それによって彼は傲慢の罪から守られたのでした。

9節の原則

9節でパウロは、イエスさまが彼に語ってくださった言葉を紹介しています。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」。

私たちは一方的に恵みによって救われました。そして、クリスチャンとして生きていくこともまた、神さまの恵みによります。神さまの助けを仰がず、自分一人の力で生きていこうとするとき、私たちは神さまからの祝福を失ってしまいます。

もし、私たちの内に神さまの力が無いとすれば、それは私たちが弱すぎるからではなく、かえって強すぎるからではないでしょうか。

自我を殺していただこう

私たちの内に、自分の思い通りに生きていきたいという思いがないでしょうか。自分がほめられたいという思いはないでしょうか。

私たちはイエス・キリストのしもべです。ですから、もっぱらイエスさまに喜んでいただけることを目指して生きていこうではありませんか。

そのための修練として、主が下さった環境を、いたずらに嘆いたりつぶやいたりするのではなく、その中に神さまからの宝があると信じて、喜び感謝することから始めましょう。

ただ、私自身、自分の内側を探ってみると、残念ながら「神を神として認めたくない」「自分こそが一番で、自分の思い通りに生きていきたい」「嫌なものは嫌だ。感謝なんかしたくない」という思いがあります。そして、この自己中心的な、傲慢な性質を殺そうと思っても、すぐにむくむくとよみがえってきます。そう、ゾンビのように。

自分で自分の自我を殺すことができるのだと思うこともまた、傲慢なのですね。神さまがこのどうしようもない私を赦してくださり、また成長させてくださる……そこにいつも帰っていかなければなりません。

まとめ

あなたが経験している、なかなか解決しない問題は、あなたをますます成長させ、大きな祝福をもたらします。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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