他に神はいない

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イザヤ書45章17〜25節

(2015.7.19)

参考資料

イスラエルは、イザヤの時代の100年後、バビロンによって滅ぼされ、多くの民がバビロンに捕囚されます。ところが、ペルシャのクロス王がバビロンを倒し、ユダヤ人のイスラエル帰還を許可します。今回の箇所の前にはそれが預言されています。今回の箇所は、その預言を信じない者たちに対する宣言です。

19節の「ヤコブの子ら」はヤコブの子孫であるユダヤ人のこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

物事がうまくいかない時、人がこちらの思い通りの動いてくれない時、私たちはついイライラしたり、時には凶暴な気持ちになったりします。または、自分のことが情けなくなって落ち込んでしまうかもしれません。そんなときの対処法を教えていただきましょう。

1.べき思考に気づこう

欲求不満

イライラや落ち込みの根っこには、「どうしてこの人は、こんなふうにしてくれないんだろう」「どうして状況がこんなふうに進んでいかないんだろう」「どうして自分は、こんなこともできないんだろう」という、欲求不満があります。

欲求不満は、欲求不満を与えた存在に対して、攻撃的な感情を生み出します。これが外に向かえばイライラや怒りになるし、自分に向かえば落ち込みになるのです。

欲求不満が生じるということは、その前に何らかの欲求があったということです。「相手にこんなふうに行動して欲しい」「状況がこれからこんなふうに動いていって欲しい」「自分はこんなふうに行動したい」という欲求です。それが裏切られた時、人は欲求不満になります。

最近、イライラしたり、ムカムカしたり、落ち込んだりした時のことを思い出してみてください。それはどんな欲求の裏返し、欲求不満でしょうか?

それは妥当な欲求か?

もちろん、自分や他人や世の中に対して、何かの欲求を持つこと自体は決しておかしなことではありませんし、悪いことでもありません。わざわざ惨め好みの生き方をする必要なんかないわけですから、自分が幸せを感じられるように、他の人に何かを求めたり、世の中に期待したり、自分自身が良い方向に成長できるように願ったりするのは、むしろすばらしいことです。

ただ、その欲求が、あまりにも現実離れしていたり、相手の自由や権利を侵害するようなものだったりした場合には問題です。そういう欲求はなかなか叶えられないし、ものすごい抵抗に遭ったりします。たとえ叶えられたとしても、人間関係がおかしくなって、また別の欲求不満の種になったりします。

特に注意しなければならないのが「べき主義」「べき思考」です。何でも「〜すべきである」「〜すべきでない」という考え方をするということですね。そして、その「べき」の基準に当てはまらない他人や、世の中や、自分自身に対しては、それ相応の罰がくだらなければならないと考えるわけです。結果として、イライラしたり、落ち込んだりします。

もちろん、人が倫理的・道徳的に生きることはすばらしいことですから、べき主義それ自体が間違いなのではありません。ただ、私たちは、「べき」と考えている基準が、本当に妥当なものなのかどうかを、時々立ち止まって検討してみる必要があります。もしかしたら、非現実的なほどに高い倫理基準を要求していないかどうか……。

非現実的な「べき」の例

たとえば、
  • 私は、常に人から良く評価されなければならない。
  • 私は、すべての人から、いつも愛されていると感じていなければならない。
  • 私は何度も同じ失敗や過ちを犯してはならない。
  • 一度決めたことは、どんなことがあっても達成しなければならない。
  • 私はいつもいい気分でいなければならない。
  • クリスチャンは、どんな依頼に対しても、決して「No」を言ってはいけない。
  • クリスチャンは、決して罪を犯してはならない。
  • 人は、どんな状況においても、私を公平に、正当に、親切に、思慮深く扱うべきだ。
  • 人は、私の依頼に対して、いかなる事情があったとしても、すぐに、喜んで対応すべきである。
  • 人は、たとえ私がはっきりと願いを口にしなくても、それを察知し、率先して親切にすべきである。
  • 誰も、私に欲求不満を与えてはならない。
  • 私の人生では、私の望むものが、私が望む時に与えられるはずだ。
  • 努力は、常に100%報いられなければならない。
こうやって書いてみると、ずいぶん非現実的で、そんなことは決して起こり得ないと分かりますね? しかし、私たちはこういう無茶な「べき思考」を無意識にやっているものです。その結果、イライラしたり落ち込んだりしているのです。

まずは気づくところから始めましょう。あなたのイライラや落ち込みの背後に、自分や周りに対する無茶な「べき思考」が隠れていませんか? それを文章に表してみましょう。

すると、きっとおかしくなって、ふっと肩の力が抜け、「こうなったらいいなあ」「こんなふうにしてもらったらいいなあ」程度のマイルドな考え方ができるようになります。

ただ、最初から非現実的な「べき主義」に陥らないようにはなれないものでしょうか。今回の箇所は、そのヒントを教えてくれています。

2.私たちは神ではない

完璧でないのが当然

さて、先ほど確認したような無茶な「べき主義」は、人に対して「神さまのように完璧であれ」と要求するものです。しかし、「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:5)とあるように、人間は完璧ではありません。

今日の箇所で、聖書の神さまは、「自分だけが神なのだ」と宣言なさっています。すなわち、私もあなたも、あなたの周りの人たちも神ではないということです。完璧でないのが当たり前。完璧なのは神さまだけです。ですから、自分や周りの人たちの完璧を要求しなくても良いのです。

イライラしたり落ち込んだりしたときには、「私は神ではない」「あの人は神ではない」「この世の中すべてが神なわけではない」と宣言してみましょう。

完全であれという命令は?

しかし、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)と、イエスさまはおっしゃったのではなかったでしょうか。他の人たちに完璧を要求することはしないまでも、自分自身は完璧を目指して努力しなければならないのではないでしょうか。

それはその通りです。しかし、同時に、完璧ではない今のあなたを、神さまは決して怒ってはいないし、情けなく思ってもおられないということもまた、聖書の主張です。

今回の箇所は、イスラエルが偶像礼拝に染まっていることに対する指導として語られました。そして、今回の箇所の前には、ペルシャのクロスという人物についての預言がなされています。偶像礼拝を悔い改めない結果、この預言が語られた100年後、イスラエルはバビロンに滅ぼされ、たくさんのユダヤ人がバビロンに連行されて行きました。しかし、さらに70年後、クロス王率いるペルシャ軍がバビロンを滅ぼし、ユダヤ人は解放されます。神さまは、イザヤを通してそれを預言しました。

偶像礼拝は、人間が神さまを捨てることです。しかし、それでも神さまの側ではイスラエルを捨てませんでした。

イエスさまは、私たちがその不完全さの故に神さまに捨てられたり、罰を受けたりしないように、身代わりに罰を受けてくださいました。不完全である自分、情けない自分が見えたとき、つい私たちはそんな自分を叩いてしまいます。また、不完全な他人や状況を見ると、これまた叩きたくなります。しかし、神さまは決して叩いたりなさいません。

「わたしだけが神だ。他にはいない」という、聖書の神さまの宣言は、「たとえあなたが、木や石で他の神々を作り上げたとしても、あなたのことをこんなにも愛している神は、わたしだけだ」という宣言です。

赦しながら成長を期待する

だからこそ、私たちは現在の自分の姿を見て、完璧でないからと叩いたりしません。ただ、より完全に近づくことができるよう、上を目指して一歩一歩成長していこうとするのです。

これは、他の人に対しても同じです。私が発展途上人であるのと同じように、あの人も発展途上人です。私もあの人も神さまではありません。イエスさまが私たちをご覧になっているように、私たちも自分や他の人やこの世の中のことを見ていきましょう。

聖書の神さまだけが完全で、神さまだけが間違いを犯さないお方。私も、あの人も、どこかに欠けがあり、そのままで神さまに愛されている。その不完全を赦し、受け入れるところから、平安に満ちた人生がスタートします。

まとめ

イライラしたら「私もあの人も神ではない」と宣言しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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